「むらまつり」のはじまりだ。
「たいこ」の音や、「笛」の音が風にのって聞こえてくる。
「田んぼ」の稲ほが急に色づくのもこのころだ。
山の中は気温がひくいぶんだけ、とりいれがおくれる。
「まつり」の屋台を引く人はすくないが、「モーター」の力をかりて、ゆっくり、ゆっくりと坂道をのぼっていく。この地方の「まつり」にはかかせない食べ物がある。
「自ねんじょ」・・・とろろ汁・・・をたっぷりとつくってこれをすすりながら「いっぱいのむか・・・」が合言葉となる。
しかし、今年は、ちょっと様子がおかしい。
いつもの「自ねんじょ掘りの名人」が、「今年は「いのしし」にやられた」と肩をおとす。
なにしろ、めっぽう「きゅうかく」がすぐれているので、土の中にある「自ねんじょ」を探すのは、お手のもの(鼻のもの?)。そのうえあな掘りは得意ときている。
これではなかなか人間さまの食卓には天然の「とろろ汁」は、のらないのである。
ところが、「人間さま」には「いのしし」を相手にして「ちえ」があるし「力」がある。
天然ものにちかい「自ねんじょ」が「さいばい」できるようになったのである。はじめたころは、味覚のちがいの差があったが、ここ数年、本物に近いものがつくられるようになった。この地方の「土じょう」が「自ねんじょ」「さいばい」にてきしているため、良質で「ねばり」も味覚も「本物」に近いものが出来るのである。
もちろん、この畑には「いのしし」は、ぜったいにはいれない。「ガード」がしっかりしているので、畑のまわりを「ウロウロ」するばかりである。
-つくり人は言う-
山から赤土をもってきて、地の土とまぜあわせ、風をさけて、太陽を、さんさんと受けて、菜から栄養をとり、大きくする。これを「やつら」に食べられてたまるもんか・・・と。
おかげさまで来年の2月ごろまで、この「とろろ汁」が山荘の朝食の献立の中で「ハバ」をきかすことになる。
村の人のはなしでは、 「いのしし」は自分でみつけた「自ねんじょ」を掘って食べるが「自ねんじょ」の頭の方だけを食べて下の方までは掘っていかないので下の部分は残っているのである。これは、人間さまに残しておいてくれるのか、掘っていくのが面倒なのか「いのしし」はだまっているのでわからない。事実、頭の部分の方が「あまみ」があるので「うまいところ」だけを食べているのかも知れない。