人は一生の間、実に多くの人との出会いがある。しかし心に滲みいるほど感化され、影響を受ける人は稀(まれ)にしかいない。
日本のフランス料理の父と呼ばれた「山本直文先生」は、“三鞍の山荘”の今井克宏シェフにとってそんな忘れ得ぬ 人のひとり。
日本のフランス料理の父と呼ばれた「山本直文先生」は、“三鞍の山荘”の今井克宏シェフにとってそんな忘れ得ぬ 人のひとり。
山本直文(なおよし)先生のプロフィール
明治23年(1890年)東京生まれ
大正6年(1917年)東京帝国大学文学部卒業
大正10年(1921年)学習院教授
昭和26年(1951年)東京学芸大学教授 フランス語講座主任
昭和46年(1971年)日本エスコフィエ協会名誉顧問・パリ司厨士協会
昭和47年(1972年)エスコフィエ名誉弟子
昭和50年(1975年)第一回食生活文化賞大賞受賞
昭和52年(1977年)殊勲三等(瑞宝章)
昭和57年(1982年)歿 享年92才
フランス語・フランス料理関係の著作・翻訳は多数に及ぶ。
明治23年(1890年)東京生まれ
大正6年(1917年)東京帝国大学文学部卒業
大正10年(1921年)学習院教授
昭和26年(1951年)東京学芸大学教授 フランス語講座主任
昭和46年(1971年)日本エスコフィエ協会名誉顧問・パリ司厨士協会
昭和47年(1972年)エスコフィエ名誉弟子
昭和50年(1975年)第一回食生活文化賞大賞受賞
昭和52年(1977年)殊勲三等(瑞宝章)
昭和57年(1982年)歿 享年92才
フランス語・フランス料理関係の著作・翻訳は多数に及ぶ。
01. 寿司を食べる
山本先生と上野の寿司屋に入る。御徒町のうら通りにある店は古い建物で昭和初期のつくりである。土間が広くとってある。ノレンをくぐり、「おじゃまします、こんにちは」とトレードマークのボーシをとった先生について私も店の中に入る。店主とひとしきりのあいさつをする。先生の話は、相手がいればいつまでも続く。先月のあの時がどうしたのとか、内容は、たいしたことがないのだが、相手をする店主は、手をやすめるわけにはいかず、動きっぱなしであるが、定位置に座っても、先生の話は続く。おしぼり、お茶が出されても、先生は、店主に話をかけている。これが先生のいつものことである。
先生の話はひとくちのんだ、お茶の葉の話にうつる。最近のお茶の出来が悪い、農薬をものすごく使っている、市販されているお茶がそうであって、茶農家の人は自分ののむ分には農薬をかけていない。これは農協が悪い。農協がこの農薬を売っているんだから仕方がない。それを見逃している監督行政が、また、さらに悪い……。先生の話はさらにエキサイトしてくる。店主は、慣れたもので、「そうですね」「そうなんです」と相づちをうつが、先生の話を、うまく聞きのがしている。手持ちぶさたの私は、しょうゆを小皿に入れて、食べる段どりをする。早く一口、口にほおばりたいのである。
すっかり自分のペースで話している先生。私がしょうゆをついだ小皿をみて、「今井くん、そんなに食べるのかい」「寿司のしょうゆは、自分が食べる分量だけ小皿にとればよい、そんなにたくさん入れるもんじゃないよ」。私はつい、何の考えもせずにしょうゆを入れてしまったのである。食べる分量なんか、考えていないし、そのしょうゆがどれだけ必要かなんか考えていない。寿司屋に入り、寿司を食べる場合、そこまで考えていない。当時十八歳の食べざかり、どんなに食べても食べすぎにはならない年ごろ、じっくりと待たされているからなおさらである。
先生にあわせてまず、、、たまごを頼む、次はひかりもの、まぐろ、まきものとすすむ。養殖ものは食べない、脂があるものは食べない。オーダーをするものの食材の話が続くから、その話に相づちをうちながら食べるのであるから、一ケのにぎりを食べるペースが、ふつうの二~三倍かかる。先生は、一通り食べ終ると、「ああ、おいしかった」。私は、荷物をもって先生のあとに続く。レジのところでおかみさんと、軽井沢まで読んでいく本の話をひとしきりしてからていねいにあいさつをし、「では、また、ごきげんよう」とボーシをかむり、にぎやかな通りに出ていく。私は、カウンターの上に残っていた、たっぷりのしょうゆに未練を残しながら先生のあとに続き、軽井沢に帰られる先生を上野駅まで送っていくのである。
途中、デパートに寄り、「いくら」と「チーズ」を買う。「ロックフォール」は安いものは化学調味料が入っているので、この産地のものでなければ、だめ。いくらは塩がきつくないものはこの店でなければ、売っていないので、ここまで足をのばすのだ、と先生は必ず、その理由を説明してくれる。この話は何回となく聞いている。今ならおいしいものであったら簡単に宅配でとりよせることができる、が、当時は、このような買い物をして、先生は、上野駅から軽井沢に帰っていった。荷物のかばんがやたら重い。先生は必ずアミ棚にのせるように指図した。おろす時の心配をすると、車しょうにホームまでおろさせるのである。それを何年も先生は、くり返しているのである。ホームで見送った私に先生は、「オールブォアール=さようなら」「アビァント=また近いうちに」とフランス語であいさつをして列車が動きはじめる前に、「さあ行きなさい」と帰るのをうながすこともいつもの通りであった。
私は、先生と別れると駅前のラーメン屋にとびこんで、寿司屋ですませた、前菜あとの食事をする。
「オールブォアール」「アビアント」をくり返し口ずさみながら、先生の発音を頭の中にたたき込むのであった。
02. そばのグラタン
勝手に先生の弟子達になっている私達は、年に二度程、軽井沢の先生宅を訪ねていた。私が帰国してから続いていたので十年以上にはなる。はじめは、奥様の手作り料理をいただいていたが、いつごろかこちらでメニューをつくり材料を持っていって先生宅の台所で料理をつくった。
献立は、東京の大庭(巖)さんがつくりあげ、それぞれ仲間に料理をつくるよう指図するのである。ソースなどは職場でつくっていくが、ムッスリーヌなどは型に詰めていって、軽井沢で蒸して食卓に出した。先生は、コース料理を好むので、オードヴルで始まり、メインは肉か魚かどちらかにする。デザートに入って、必ずチーズが用意された。 先生は、チーズは発酵がすすんでいるビァンフェーを好んだ。召しあがるときは、はっきりとした発音ができない弟子には、何回もくり返しビァンフェーフロマージューのR(アール)の発音をさせるのが楽しみでもあったようだ。
先生のフランス語は、私たち弟子たちにとってBGMである音楽も何もなくとも、ときどき発音されるフランス語を楽しく聞いたものである。帰国後の私は、ある程度、発音には自信があったし会話には困らなかったが、私たちの致命傷は、フランスの歴史や文化についてほとんど勉強をしていなかったことである。言い訳になるが、渡欧した私たちは、職場での仕事上での会話が精一杯で、とても、それ以外のことは、勉強する暇がなかったのである。
先生のお宅での食事会には、チーズの他に必ず用意されるのがサラダである。先生のお宅の庭からエストラゴンをつんできたり、軽井沢の池にしげっているクレソンをとりにいったりして用意をし、ドレッシング、塩胡椒をしてまぜるのは、先生が着物のそでをおさえながら、「フランスではサラダをつくるのは主人である、このようにまぜあわせて「ファチゲ」させないといけない」と、何回も何回もかきまぜてサラダをつかれさせるのである。ときにはタンポポが入る。すると、先生の発音はエキサイトしてくる。ピサンリはタンポポで、ピィーアンリーは子供が寝小便をしたベッドのことを云うんだ。私たちはレペテ(くり返し発音)をしてみる。「ハハハァハァ、それは寝小便だよ」と大笑いをしてタンポポ入りサラダを、おいしそうに食べる。
やがてタイミングをみて、先生オリジナル料理が出される。「そばグラタン」である。最初にこのグラタンをいただいたとき、正直云って、こんなにまずいものはないと思った。のび切ったそばが、ベシャメルにからまってグラタン皿にのって焼かれたって感じである。あっけにとられているうちに、「どう、このアイデア」と先生に聞かれたので、不用意にも「おいしいです」と答えてしまったのが間違いである。それから、このグラタンは、メニューの中の一つに加わってしまった。さすがに何回か、改良が加えられたため、おいしくなっていったのだから慣れは恐ろしいものだ。いつの頃からか、ア・ラ・ヤマモトが加わり、信州のどこかの店でメニューにのったということであった。 私もこのグラタンを、なんとかおいしく食べようとトレーニングをしてみたが、むづかしい料理であることには間違いない。
先生なきあとはつくったこともなければ、食べたこともない。
03. 先生の本だな
二十八歳で帰国した私が藤沢の教会で小さな結婚式をあげ、新婚旅行をかねて先生にごあいさつに軽井沢を訪ねた。初日が、先生宅で、その日のうちに○○湖までいくつもりであった。先生宅に近くのゴルフ場の若いコックたちが集まるのでフランスのことを話してやりなさい、ということで引きとめられ、ホテルはキャンセルをしてその夜は先生宅に泊ることになった。
若いコックさんの中には、現在、東京ドームホテルの総料理長になっている鎌田(昭男)君がいた。皆熱心で、たくさんの質問ぜめにあい、それに答えているうちに深夜になってしまった。皆、私たちが新婚であることを忘れていたようだ。やがて話を惜しみながら、若い人たちが帰っていったが、残された新婚さんは、先生の奥さまに床をつくってもらい、ギシギシ云う価値あるお宅の二階へと案内されたのである。
先生宅には渡欧する前に二~三度訪ねたことはあったが泊まったことはない。まして、二階などあがったこともない。新婚さんを迎えた部屋は、図書館のようにまわりにびっしりと、古めかしい本がならんでいた。分厚い本は何の専門書かわからない。ふだん、私たちが目にするようなものではなく、京都の古本屋にある、あのみがきのかかった、本がびっしりなのである。あらためて先生は学者であることに気がつく。
人、、、みしりするやさしい新婚さんは、人に逢った気づかれと、本の部屋の中で、もうグロッキー。たおれるようにフトンの上で、ひっくり返ってしまった。 私たちの初日の夜は、このようにして先生の本にかこまれて、何ごともなく、静かな、おやすみとなったのである。その後、先生宅を訪ねても、二度と、二階にあがりなさいと云ってもらったことがない。それより少ない本だながある一階の書さいの本だなの前でも、私が食傷気味なのを、先生は読みとっていて、「今井君はもう少し本に興味をもちなさい」といわれ、あまりのり気でない私のようすに、その後、本のことはあまり言葉にすることはなかった。
そんなこともあって先生のおなくなりになったあとの、、、カタミ分けはネクタイとセビロであった。
04. 武者修行
私が渡欧して2年目、ジュネーブの近く、コペのホテル「ドゥラックコペ」にいたときである。山本先生ご夫妻一行、20名程が、ジュネーブにやってきた。大学の家政科の先生や、若い料理の先生方や、日本料理店の新婚さんご夫妻などのグループであった。私も後年になって料理教室をやり、奥様たち女性のグループを多いときで30名、少なくても20名ぐらいのツアーを組んで旅行をしたが、女性を連れて歩くというのは大変なことである。とにかくみんな「わがまま」である。あたり前のことなのであろうが、1人1人個性があり、自己主張が強すぎる。
そんな経験をしながら先生は、ジュネーブまでやってきたのだろう。先生は、大変につかれていたようだった。迎えにでた私と秋田純平さん(菓子の勉強でスイスに来ていた。この人のえんで私はその後、浜松に来ることになる)は、先生ご夫妻にのんびりしていただこうということで、秋田さんのアルファロメオにご夫妻を乗せて、ローザンヌまで行き、帰路はのんびりとレモン湖のほとりの道路を通 りながらジュネーブに向かった。
昼食に寄った湖が直下に見えるレストランで「ペルシュのフライ・ソースタルタル」を食べた。この魚は湖の小魚で、味があっさりとしていて私の大好きな料理である。塩胡椒をして粉をまぶし、サラダオイルで揚げ、レモンを添えてくれる。ソースはタルタルソースである。あっさりした味で何匹でも食べられる。地元の炭酸のきいた白ワインがさらに美味しさを倍加してくれる。先生ご夫妻は、久しぶりに逢った私達とのんびりとドライブをしたため、リラックスされてお疲れがとれたようだ。
会計に立った私が支払をすませていると、レジのそばに来た小ぶとりのご主人であろうコック姿の人が、 「キミはフランス語がうまいね、どこの国からきたの?中国人かい?」 といわれるのがいつものパターン。言葉をほめられて、 「日本人です。コックの勉強でコペに来ています」 「へえ、コックなの。ところで今日のペルシュはどうだった?」 「おいしかったですよ。お連れした私の先生ご夫妻も大満足です」 「そうかい。どうだ、よかったら調理場をみていくかい?もう暇になったから」 とご主人は私を調理場に案内してくれた。きれいに片づけがすんでいて、気持ちのよい調理場だ。掃除をしているスペイン人がニコニコとあいさつをしてくれた。コックは、ご主人と若いコックが2名いただけである。テーブルに戻って先生に「調理場までみせてもらいました」と報告すると「日本にいる若いコックが勉強にこちらに来たいのだけどどうかな?この店で雇ってくれないかな。こじんまりとしたこのくらいの店で、勉強させたいね」。
※私達は「ペルミション(労働許可証)」をスイスの国で発行し、この許可証があるから給料をもらい、部屋をあてがってもらって無事に問題もなく働くことができた。最初はベルン市、次にコペという小さな街で働くことができるのも「ペルミション」があるからである。
先生は簡単に云うが、「難しいことです」といいながら私は、もう一度ご主人のところにいって、「日本にいる若いコックが、スイスに勉強に来たいのだけど、ここで雇ってくれないかな?もちろんペルミションをとってもらいたいが」と難しい事と知りながら話をしてみると、「いいよ、私のところで、勉強させてやるよ。ペルミションもとってやる」と簡単に引き受けたのである。もう先生は、そのとき、調理場にやって来て、私たちの会話に入り込んできた。得意の先生のフランス語だが、どうにもご主人には通 じないのである。先生の言葉は「フランス・パリ」の本場のフランス語で、この地「スイス」のジュネーブをはなれたローザンヌの、しかも片田舎のフランス語。あとでわかったことであるが、のんびりとした独特の発音である。私はもうこの地で話をしているから、すっかり慣れてしまった。フランス語学者の先生のフランス語は通 じず、私の方がよく通じるのである。先生には申し訳ないが、私が通訳をして気持ちを伝えてやった。
その後、帰国した先生からはご主人にあてて手紙で申し込み、引きうけてくれたから青年をおくるという手紙も私に届き、ご主人の話を確かめる前に、日本の若いコックはスイスにやってきたのである。おかしいと思っていた私の不安は「図星」になり、その若いコックの「ペルミション」はとれず、この若いコックはペルミションを持たずに勉強するハメになった。村の警察官が坂道をのぼってくるのがみえると、この若いコックはご主人の合図で屋根うらの部屋に逃げこんでいくのである。「働いていないよ」ということになる。この若いコックは、「のんき」なところもあり、これを楽しみながらその後1年近く働いて、給料も途中からつりあげてもらってやっていたのだから、驚きよりあきれてしまった。その若いコックは小路(明)君といい、あの有名な四谷の、一日一組の丸梅(完全予約制料亭)の井上梅さんの「甥っこ」ということである。今は神戸で、コックはとっくに辞めて会社の経営者になっている。
若いコックを一方的におくる先生のおかげで、その後、同じような方法で何十人という若いコックたちがスイスにやってきて「ペルミション」なしで働き、警察のウラをかいて給料をとっていたのだから、荒っぽい武者修行をさせられたものである。今、その若いコックたちが、私のまわりにいる仲間たちなのである。「ペルミション」をもって働いていた私たちより、その後、同じ方法でフランスに渡り、技術をしっかりと勉強してくるのであるから、「きっかけ」とは、何が幸いするかわからないものである。先生のフランス語を現地のフランス語に訳した私は、今だかつて本場のフランス語の発音ができないでいる。先生も苦笑いしていたことであろう。
05. おでむかえ
旧軽井沢の駅を降りると、今の駅前とは異なる風情のあるタクシーのりばに向う。乗降客がホームにあふれかえるシーズン中は、ほとんど私たちの軽井沢行きはないので、静かな軽井沢を訪ねることができる。タクシーに乗り「山本直文先生宅」と名前を告げると、間違いなく山本先生宅まで連れていってもらえる。
浜松に移ってからは、秋田純平さんと一緒に出かける事が多くなり、富士川から山梨にぬ け、清里から望月、小諸を通って軽井沢に入る。このコースは高速道路やバイパスが出来たりして多少の変化はみられたが、通 いなれたるドライブコースであった。スイス時代の仲間でもあった秋田さんとは、この道中がとても楽しく、毎年の欠かさない先生宅訪問の一つであった。
軽井沢の中でもひと際簡素な場所にある先生宅は、タクシーで行けば間違いないのだが、こちらが探して行くとなると大変である。慣れればどんな場所でもわかるのはあたり前であるが、年に一、二回では、ついうっかり見落としてしまうのである。手入れの行き届いた杉の木立ち、車道と舗道に分かれているのでさらに静けさが伝わる。舗道から十メートル程のところに「山本」とだけ書かれた表札がある。まったく目立たないから、車で探すとなるとつい見落としてしまう。行きつ戻りつはよくあることで、毎度のことであるが表札を見つけるとホッとする。高さ三十センチぐらいの木に「山本」とだけ書かれているから、目立たない表札である。お屋敷はその奥、三十メートルぐらいのところにある。手入れの行き届いた庭木にも、軽井沢特有の静けさが感じられる。
車の音を聞きつけた先生ご夫妻は、玄関まで来て迎えてくれる。先生の大きな身体が玄関をふさぎ、来客のもてなし方が家中に広がっているように感じる。先生は誰に対しても同じようにして迎えてくれる。決して多くの言葉は語らないが、先生の「やあ、こんにちは」で半年間のご無沙汰が「サーッ」と消えていく。
先生と奥様が迎えてくれたあの軽井沢の「山本邸」は今はない…が、私のまぶたにはいくつになっても消えない、師の面 影である。
06. フランス語教室
日本のフランス料理界にあって、山本先生は、明治の勝海舟や、西郷隆盛に影響を与えた「佐久間象山」に似ている。
私たちの大先輩たちが、仕事を通 じてどうしてもクリアしなければならないのが「フランス語」であった。メニューを書き、初めはふちょうに近い言葉も、その意味が解らねばならぬ ことに気がつく。調理場において調理の技術が上達していくのは当然で、これについていかないのが、フランス語の理解度であった。料理界の大先輩たちがどのようにして山本先生とお付き合いを始めたのか、それは私にはわからない。
私が、山本先生と初めてお逢いしたのは、私が十八歳のころ。斎藤文次郎さんが富友会という会の会長となり、全日本司厨士協会が出来たころであった。当時、古びた田町の建物の二階で行なわれた山本先生のフランス語教室があった。生徒は三十名程と満員で、半数以上が女性であり、学校の先生方であった。若いコックと、年配のコックとそれぞれ同数であったろうか。月に一回というこの教室は、非常に活気があり、先生の矢のようにとんでくるフランス語に、珍しく興味津々で通 ったのである。半年ほどすると教室に席のゆとりが出はじめ、一年たつと残っている人は、十名程になっていた。
五名になり三名になり、ついに私一人になったそこの頃、教室でのレッスンではなく会を訪れる先生が、原稿やら、本のこと、出版関係のことなど話をされるのを待って、用事がすんだ先生の「カバン」を持って駅まで歩いていく。あるときはTホテルの調理場へ、またはSホテル、Nホテルなど先生は立ち寄られた。小さな街のレストランで働いていた自分にとって、これは最高の勉強の場であった。どのホテルのコック達も皆洗練され、張りと活気があった。調理事務所を訪れる先生を迎える料理長もまぶしい輝きがあり、先生との会話もパリの話や外国の話である。そこはまったくの別 世界であった。
街の中のレストランを好きになり「料理を習うならここだ」と決めていた私には、大変なカルチャーショックであった。洋食屋の料理の旨さを、なんとか早く一人前になって覚えようとしていた私には、別 なる道があることに気づかされた。しかし今は先生のカバン持ちの身分であった。それでも、最初のうちはそれを打ち消す気持ちは大いにあった。「まだ何も覚えていないじゃないか、身分を知れ」「洋食屋の本?すじも知らないじゃないか」。「カレー」一つとっても、ようやく粉を使用しない野菜でつくるスマトラカレーを覚え、有頂天になっていたし、デミ・グラスでつくるシチューのかたまりを目の前にして、「すげえやー」とおどろいている自分が、別 なる世界「フランス料理」を、しかもあの洗練されたホテルのコックさんたちのようになれるだろうか…。といったジレンマにおそわれた。
先生は、そんな私の気持ちを知ってか、先生の訪問先は街のレストランまで幅が広い。Pレストラン、Kレストラン、Mレストラン。なんとそこには、協会誌の中で執筆されている大先輩たちがいるではないか。先生の訪問される用事は、短時間で済む。「フランス語」「料理」のこと、フランス文化のこと、この先輩達の会話は、もう料理人というより別 世界の人たちであった。私のカルチャーショックは、先生の訪問先でどんどんと膨れあがり、ついに破裂するのであった。
この先生のカバン持ちで芽生えた気持ちが、やがて外国に行こうと自分をせかせたのである。フランス語をまず覚えること、これが第一。そのためにはきちんと休日がとれるところ。旅費をためるための給料の安定したところ。この気持ちが、次の職場を決めさせたのである。そこが、渡欧まで働いた銀座八丁目の「千疋屋」であった。この就職には、先生も喜んでくださった。くだもの、チーズ、その他野菜まで勉強するにはすばらしい職場となり、とくにサービス(ウエイター)の仕事を、Tホテル出身の支配人から教えていただいたことも、私の今のオーベルジュにつながっている。 NHKのフランス語を店の屋上で休けい時間に聞くことができたのも、この安定した良き職場であったからだ。ある日の午後、山本先生に立ち寄っていただいた時、そのお相手が秋山徳蔵(天皇陛下の料理人)さんだったのも、あとから聞いたことで知った。先生の行くところ、全て、料理人のいるところであった。
この銀座八丁目の千疋屋は今はない。
07. きも吸
今は、スローフードや地産地消などの言葉が氾濫して、さかんに食品の安全性をアピールしているが、先生の食品に関する言葉は、絶えず「安心」が第一であり、肉や魚の加工品の中に入る添加物を、事のほか嫌っていた。
本当かどうか私にはわからないが、先生は「ブルチーズの中に添加物が加えてある」と云って、この種のチーズを買う場合、フランスのロックフォール以外は買わなかったように思う。「たらの子」も、色つきでないものを選んだし、「いくら」も「うに」も必要以上に添加されていないものを買い求めていた。
軽井沢で留守番をしている、奥様からのお遣いの時もあるが、食品に関してはお二人共、同じお考えをもっていたようだ。デパートの中を先生について歩きまわり買い物を済ませると、先生お好きの「うなぎ屋」に入る。この店も必ず決まっていて「弁慶」という「うなぎ屋」に行くである。弁慶はそれから十数年後、軽井沢にも店を出したが、本店の味ではないと云って、一度も、軽井沢店の「うなぎ」は食べさせてもらえなかった。先生には「うなぎ」の食べ方が決まっていた。「いつものを」というだけで店の人たちは、先生の注文どおりの「うな重」をつくってくれる。
まずフタをあけると同時にすばやく山椒の粉をふりかけ、すぐにフタをする。待つこと10~15秒ぐらい。そこでフタをあけて食べ始める。これが、早くても遅くてもいけない。「10秒待つのだぞ」という顔つきをして、私の動作をみている先生には、いたずらっぽい子供のようなところがある。
「私が〈化学調味料〉を認めるのは、このうなぎを食べるときの〈きも吸〉だよ。これには入っていないと吸物の味がしない。〈うなぎ〉の味は、きついんだな」。先生はこう話しながら、化学調味料が、たっぷりと入った「きも吸」をおいしそうにのんでいた。「うなぎ」は、先生の大好物だったのである。
08. 地方のフランス料理店
二十八歳で帰国した私が、浜松の友人・秋田(純平)さんから誘われ、浜松の成子に新築され結婚式場も兼ねた総合レストラン「オーク」という店に料理長として勤めることになる。帰国したばかりの私には、都会をはなれることに抵抗はあったが、秋田さんに誘われたのが、浜名湖で舟を出して釣りをしている時であった。
くどかれているとき、やたら魚がつれた。タイ、皮ハギ、コチ、トラフグ、と、次々と別 な獲物がかかってくる面白さ。逆に云えば、ポイントが決まっていないから別 の獲物になるのがわかったのは、浜松に来てからのことであるが…。
そんな、ウキウキ気分でいるとき、浜松に来ることを承知してしまった。あわただしい開店を無事成功できたのも、友人の川崎(○○)さんが、内弟子を三人も送りこんでくれたり、日活ホテルの土井(○○)料理長が二日がかりで手伝いに来てくれたりしてくれたおかげであった。軽井沢の先生も、奥さまとご一緒に、浜松まで来てくださった。二十八歳の新米料理長が、地方とは云え、大きな総合レストラン、従業員・七十名、調理場・三十名の大所帯をもったのであるから、てんてこ舞の大いそがしさであった。
一段落がつき、先生のお泊まりになっているホテルへごあいさつに伺うと、「今井君、浜松はまだまだ遅れているねえ。ホテルのロビーを浴衣で客が歩いているし、レストランの中にも入ってくるよ。まず、料理を作るよりお客のマナーだな」。先生は、ひとしきり、浜松のレベルの低さを嘆いていた。このことに私が気がつくのは、やがてオープンした当日からである。優しくわかりやすいメニューを作り、ウエイターをトレーニングし、用意万端でオープンしたのであるが、何分にも外国帰りのプライドがやたらうごめき、無理なことばかりだったのであろう。目茶苦茶なオープンだったのである。
まず、自分たちが反省すべき点は反省し、なおせば済むことであるが、土地柄というか、おっとりとした気性がなせるのか、予約時間に客が集まって来ない。三十分、一時間遅れは普通 で、それなら「浜松時間だろう」とそれに合わせると、三十分前から来て「食事をはじめろ」という。下の階のレストランは予約なしで食事が出来る軽食風(今で云うカフェテリヤ)のメニューであったが、ハンバーグ、シチュー、グラタンの食べ残しがやたらと続く。残飯ボールに残ったそれらを食べてみても、決してまずくはない。あれ程トレーニングをして皆で納得した料理であったから、なおさら気を重くした。やがてそれが「スパイスの使いすぎ」であることに気がつき、浜松市内で働いていたコックたちをストーブに移し、わざわざ東京から来てくれた応援コックをウラ方にまわした。すると、料理が残らなくなった。シチューは、ケチャップで味つけした「甘ったるい味」、ハンバーグなどはスパイスを控えめ、それにケチャップとデミグラスが半々のソース。これがきれいに食べられていた。ステーキは醤油味。皿につけられた、キャベツサラダのドレッシングは、和風ドレッシングであった。
このスタートは、私の人生観を変えさせた。先生いわく「大変だよ浜松は」。このとき、先生は料理のことは何もおっしゃらなかったが、都会とははるか離れたこの土地が、何かにつれて遅れていることを「マナーのしつけ」ということで先生はおっしゃった。先生は、普段弱い人たちのことを批評することは一度もない。先生は強者に向って文句を云うことはあるが、それは見えないたちの悪いものに向ってである。
散々なオープンであったが、応援コックや、地元のコックたちのガンバリが少しずつ発揮できるようになった日は以外と早く訪れたのである。当時、おろし売り団地が浜松市内に出来た。約百五十社ぐらいが争うように新社屋を建て、この新社屋パーティが行なわれたのである。最初に受けたパーティがうまくいったのを、このパーティに出席した別 のオーナーが、当社のオープンは「オーク」でやろうということになり、その注文は次から次へと続いた。終ってみればなんと団地の八十%以上が当店でパーティをやったことになる。
この成功裏には、営業の人の活躍を見逃すことは出来ないが、全社員一団になって事をやったことにつきる。地方では、コックはたくさん集まるが、サービスをする人がなかなか集まらない。そこで私は、コックを増やし、料理をつくったあと、コートをとり替えウエイターにする。料理作りとサービス、これを両方やらせたのである。多いときには、ウエイターの方にまわるのが三分の二ぐらいになるときがある。結婚式には私も黒服を着て新郎新婦ご誘導をやったりしたときもある。この「全員サービス精神」が功を果 たしたのである。パーティ会場には、必ずモギ店をつくった。寿司、そば、てんぷら、ヤキトリのコーナーをもうけ、それにコックをそれぞれつけて実演させたのである。そして中央テーブルには、フランス料理を食べやすい一口サイズのポーションでプラッター盛りにし、とにかく食べやすさを演出した。その間には、浜松の人たちの好きな「さしみ」や、ゆでた「海老」などをおいて料理がバラエティに富むようにした。やがてパーティが終わるころには、「オークのフランス料理はうまい」というのが、評判になってきたのである。
結婚式も増え、各種食事会も、「フランス料理を食べる」というムードに変わってきたのである。それは先生が来浜し助言をしてくれた日から三年はたっていたのである。今、山荘を訪れてくれるお客さまの中で、「昔オークで私たち式をあげたのよ。その時の料理長が今井さんだったのよ」。聞けばこの家族連れ、小さな孫まで連れている。親子三代にわたって、再び私の料理を食べに来てくれるのである。
先生の一言が今も生き続けているのである。
09. 先生とラモーさん
エスコフィエ博物館長ラモーさんご夫妻をご案内して京都、神戸、長野と旅をした。
ラモーさん自身は三度目の来日で、奥様をフォローしながらの、のんびりとした旅であった。ラモーさんは、日本のことを知りつくしていて、京都にいたっては、ご自身で見学するところを選んでいた。歩くのがきついところは避け、また人の多いところはコースに入っていなかった。この役目を引き受けるにつけ、小野(正吉)会長からは、ラモーさんと相談して好きなようなスケジュールをつくるようとのことであった。約八日間、終り一日が軽井沢に行くようにとの決めごと以外は何もなく、朝食のときに「今日は、どうしましょうか?」というような、いたって楽なつきそいであった。おつかれで朝食は部屋でとることもあった。昼食や夜の食事をこちらで用意しなかったときは、ルームサービスやカフェテリヤの単品を好んで食べた。
来日して、すぐに、「てんぷら」や「すきやき」「ヤキトリ」など東京で食べられたとみえ、私には食事の打ち合わせの都度「〈すきやき〉は、もう食べているからね」と笑いながら、おっしゃった。あの醤油煮と、油っぽい「てんぷら」は一度でよいということであった。そば、うどんも一回でよかったし、醤油味は「もういいよ」ということであった。
京都地方の当時のホテルではなかなかフランス料理をおすすめできる店がなかったのと、私の知識もうとかったので、「さあ食事」となると困ったのである。はじめのうちは、ご遠慮されていると思っていたのであるが、ラモーさんとはニースのエスコフィエ博物館を訪ね、アンティブのラモーさんの住まわれている町でしばらくホテル住まいをしたこともあり、気心は知れていた。だから、私には遠慮なく、思っていることが云えたはずである。見学も一日二、三ヶ所。ゆっくりの旅は続き、クライマックスは軽井沢、山本先生宅訪問となった。
東京へ一旦戻り、定宿ホテルオークラに一泊したので、すっかりお二人ともリラックスされたようであった。オークラには小野会長はじめ、大庭(巖)氏が、なにくれと面 倒をみられるので、それを気づかっての外交的な元気かと私には思えたがそのようではなく、オークラというホテル全体にいやされたようである。「ピザ」が食べたいなどと昨夜は元気だったし、ワインも少しおのみになったのである。気力が回復して軽井沢への旅となった。
この何日間の旅行中、ラモーさんは何回も「山本先生は、どうしているの」「いつ逢うの」としきりに私にたずねた。ラモーさんは、山本先生に逢うのを楽しみにしていたのである。それなら最初から軽井沢を訪ねるコースをとればよかったのに…とつい付き添いの「グチ」も出たが、会長から大庭氏へ、そして私に伝達された今回のラモーご夫妻の「日本の旅」は、それに従うしかなかったのである。
私たち一行が、先生宅を訪れたときには、先生ご夫妻は外までお迎えに出て、日仏友好の絆が結ばれたのである。会話ははずみ、いつまでも家の中に入らず、庭先でのシーンが二十数年たった今でも、私の脳裏によみがえってくる。先生のはっきりとした大きな声のフランス語の発音にあわせ、ラモーさんのフランス語もいつものニースなまりではなく、パリの上流フランス語であった。スイスなまりの私のフランス語の入る隙間はなかったし、その日、私たちは何を食べたのか、いつ帰ったのか、まったく記憶には残っていない。ただ、旧友が親しく話しあっている姿があまりにも印象が強すぎたことには、間違いないのである。
その後、先生とラモーさん亡き後、山本先生の奥様が、ラモーさんの墓のあるニース近くの△△△村まで行き、フランスでも珍しい「本の形」をした墓標の前で、日本から持っていった石の像を供えて祈られていたのが、私にはさらなる落涙を誘ったのである。奥さまはこのためにツアーに参加し、その足でニース駅からパリへの夜行列車にのり、翌日、日本へ帰ったのである。
山本先生と上野の寿司屋に入る。御徒町のうら通りにある店は古い建物で昭和初期のつくりである。土間が広くとってある。ノレンをくぐり、「おじゃまします、こんにちは」とトレードマークのボーシをとった先生について私も店の中に入る。店主とひとしきりのあいさつをする。先生の話は、相手がいればいつまでも続く。先月のあの時がどうしたのとか、内容は、たいしたことがないのだが、相手をする店主は、手をやすめるわけにはいかず、動きっぱなしであるが、定位置に座っても、先生の話は続く。おしぼり、お茶が出されても、先生は、店主に話をかけている。これが先生のいつものことである。
先生の話はひとくちのんだ、お茶の葉の話にうつる。最近のお茶の出来が悪い、農薬をものすごく使っている、市販されているお茶がそうであって、茶農家の人は自分ののむ分には農薬をかけていない。これは農協が悪い。農協がこの農薬を売っているんだから仕方がない。それを見逃している監督行政が、また、さらに悪い……。先生の話はさらにエキサイトしてくる。店主は、慣れたもので、「そうですね」「そうなんです」と相づちをうつが、先生の話を、うまく聞きのがしている。手持ちぶさたの私は、しょうゆを小皿に入れて、食べる段どりをする。早く一口、口にほおばりたいのである。
すっかり自分のペースで話している先生。私がしょうゆをついだ小皿をみて、「今井くん、そんなに食べるのかい」「寿司のしょうゆは、自分が食べる分量だけ小皿にとればよい、そんなにたくさん入れるもんじゃないよ」。私はつい、何の考えもせずにしょうゆを入れてしまったのである。食べる分量なんか、考えていないし、そのしょうゆがどれだけ必要かなんか考えていない。寿司屋に入り、寿司を食べる場合、そこまで考えていない。当時十八歳の食べざかり、どんなに食べても食べすぎにはならない年ごろ、じっくりと待たされているからなおさらである。
先生にあわせてまず、、、たまごを頼む、次はひかりもの、まぐろ、まきものとすすむ。養殖ものは食べない、脂があるものは食べない。オーダーをするものの食材の話が続くから、その話に相づちをうちながら食べるのであるから、一ケのにぎりを食べるペースが、ふつうの二~三倍かかる。先生は、一通り食べ終ると、「ああ、おいしかった」。私は、荷物をもって先生のあとに続く。レジのところでおかみさんと、軽井沢まで読んでいく本の話をひとしきりしてからていねいにあいさつをし、「では、また、ごきげんよう」とボーシをかむり、にぎやかな通りに出ていく。私は、カウンターの上に残っていた、たっぷりのしょうゆに未練を残しながら先生のあとに続き、軽井沢に帰られる先生を上野駅まで送っていくのである。
途中、デパートに寄り、「いくら」と「チーズ」を買う。「ロックフォール」は安いものは化学調味料が入っているので、この産地のものでなければ、だめ。いくらは塩がきつくないものはこの店でなければ、売っていないので、ここまで足をのばすのだ、と先生は必ず、その理由を説明してくれる。この話は何回となく聞いている。今ならおいしいものであったら簡単に宅配でとりよせることができる、が、当時は、このような買い物をして、先生は、上野駅から軽井沢に帰っていった。荷物のかばんがやたら重い。先生は必ずアミ棚にのせるように指図した。おろす時の心配をすると、車しょうにホームまでおろさせるのである。それを何年も先生は、くり返しているのである。ホームで見送った私に先生は、「オールブォアール=さようなら」「アビァント=また近いうちに」とフランス語であいさつをして列車が動きはじめる前に、「さあ行きなさい」と帰るのをうながすこともいつもの通りであった。
私は、先生と別れると駅前のラーメン屋にとびこんで、寿司屋ですませた、前菜あとの食事をする。
「オールブォアール」「アビアント」をくり返し口ずさみながら、先生の発音を頭の中にたたき込むのであった。
02. そばのグラタン
勝手に先生の弟子達になっている私達は、年に二度程、軽井沢の先生宅を訪ねていた。私が帰国してから続いていたので十年以上にはなる。はじめは、奥様の手作り料理をいただいていたが、いつごろかこちらでメニューをつくり材料を持っていって先生宅の台所で料理をつくった。
献立は、東京の大庭(巖)さんがつくりあげ、それぞれ仲間に料理をつくるよう指図するのである。ソースなどは職場でつくっていくが、ムッスリーヌなどは型に詰めていって、軽井沢で蒸して食卓に出した。先生は、コース料理を好むので、オードヴルで始まり、メインは肉か魚かどちらかにする。デザートに入って、必ずチーズが用意された。 先生は、チーズは発酵がすすんでいるビァンフェーを好んだ。召しあがるときは、はっきりとした発音ができない弟子には、何回もくり返しビァンフェーフロマージューのR(アール)の発音をさせるのが楽しみでもあったようだ。
先生のフランス語は、私たち弟子たちにとってBGMである音楽も何もなくとも、ときどき発音されるフランス語を楽しく聞いたものである。帰国後の私は、ある程度、発音には自信があったし会話には困らなかったが、私たちの致命傷は、フランスの歴史や文化についてほとんど勉強をしていなかったことである。言い訳になるが、渡欧した私たちは、職場での仕事上での会話が精一杯で、とても、それ以外のことは、勉強する暇がなかったのである。
先生のお宅での食事会には、チーズの他に必ず用意されるのがサラダである。先生のお宅の庭からエストラゴンをつんできたり、軽井沢の池にしげっているクレソンをとりにいったりして用意をし、ドレッシング、塩胡椒をしてまぜるのは、先生が着物のそでをおさえながら、「フランスではサラダをつくるのは主人である、このようにまぜあわせて「ファチゲ」させないといけない」と、何回も何回もかきまぜてサラダをつかれさせるのである。ときにはタンポポが入る。すると、先生の発音はエキサイトしてくる。ピサンリはタンポポで、ピィーアンリーは子供が寝小便をしたベッドのことを云うんだ。私たちはレペテ(くり返し発音)をしてみる。「ハハハァハァ、それは寝小便だよ」と大笑いをしてタンポポ入りサラダを、おいしそうに食べる。
やがてタイミングをみて、先生オリジナル料理が出される。「そばグラタン」である。最初にこのグラタンをいただいたとき、正直云って、こんなにまずいものはないと思った。のび切ったそばが、ベシャメルにからまってグラタン皿にのって焼かれたって感じである。あっけにとられているうちに、「どう、このアイデア」と先生に聞かれたので、不用意にも「おいしいです」と答えてしまったのが間違いである。それから、このグラタンは、メニューの中の一つに加わってしまった。さすがに何回か、改良が加えられたため、おいしくなっていったのだから慣れは恐ろしいものだ。いつの頃からか、ア・ラ・ヤマモトが加わり、信州のどこかの店でメニューにのったということであった。 私もこのグラタンを、なんとかおいしく食べようとトレーニングをしてみたが、むづかしい料理であることには間違いない。
先生なきあとはつくったこともなければ、食べたこともない。
03. 先生の本だな
二十八歳で帰国した私が藤沢の教会で小さな結婚式をあげ、新婚旅行をかねて先生にごあいさつに軽井沢を訪ねた。初日が、先生宅で、その日のうちに○○湖までいくつもりであった。先生宅に近くのゴルフ場の若いコックたちが集まるのでフランスのことを話してやりなさい、ということで引きとめられ、ホテルはキャンセルをしてその夜は先生宅に泊ることになった。
若いコックさんの中には、現在、東京ドームホテルの総料理長になっている鎌田(昭男)君がいた。皆熱心で、たくさんの質問ぜめにあい、それに答えているうちに深夜になってしまった。皆、私たちが新婚であることを忘れていたようだ。やがて話を惜しみながら、若い人たちが帰っていったが、残された新婚さんは、先生の奥さまに床をつくってもらい、ギシギシ云う価値あるお宅の二階へと案内されたのである。
先生宅には渡欧する前に二~三度訪ねたことはあったが泊まったことはない。まして、二階などあがったこともない。新婚さんを迎えた部屋は、図書館のようにまわりにびっしりと、古めかしい本がならんでいた。分厚い本は何の専門書かわからない。ふだん、私たちが目にするようなものではなく、京都の古本屋にある、あのみがきのかかった、本がびっしりなのである。あらためて先生は学者であることに気がつく。
人、、、みしりするやさしい新婚さんは、人に逢った気づかれと、本の部屋の中で、もうグロッキー。たおれるようにフトンの上で、ひっくり返ってしまった。 私たちの初日の夜は、このようにして先生の本にかこまれて、何ごともなく、静かな、おやすみとなったのである。その後、先生宅を訪ねても、二度と、二階にあがりなさいと云ってもらったことがない。それより少ない本だながある一階の書さいの本だなの前でも、私が食傷気味なのを、先生は読みとっていて、「今井君はもう少し本に興味をもちなさい」といわれ、あまりのり気でない私のようすに、その後、本のことはあまり言葉にすることはなかった。
そんなこともあって先生のおなくなりになったあとの、、、カタミ分けはネクタイとセビロであった。
04. 武者修行
私が渡欧して2年目、ジュネーブの近く、コペのホテル「ドゥラックコペ」にいたときである。山本先生ご夫妻一行、20名程が、ジュネーブにやってきた。大学の家政科の先生や、若い料理の先生方や、日本料理店の新婚さんご夫妻などのグループであった。私も後年になって料理教室をやり、奥様たち女性のグループを多いときで30名、少なくても20名ぐらいのツアーを組んで旅行をしたが、女性を連れて歩くというのは大変なことである。とにかくみんな「わがまま」である。あたり前のことなのであろうが、1人1人個性があり、自己主張が強すぎる。
そんな経験をしながら先生は、ジュネーブまでやってきたのだろう。先生は、大変につかれていたようだった。迎えにでた私と秋田純平さん(菓子の勉強でスイスに来ていた。この人のえんで私はその後、浜松に来ることになる)は、先生ご夫妻にのんびりしていただこうということで、秋田さんのアルファロメオにご夫妻を乗せて、ローザンヌまで行き、帰路はのんびりとレモン湖のほとりの道路を通 りながらジュネーブに向かった。
昼食に寄った湖が直下に見えるレストランで「ペルシュのフライ・ソースタルタル」を食べた。この魚は湖の小魚で、味があっさりとしていて私の大好きな料理である。塩胡椒をして粉をまぶし、サラダオイルで揚げ、レモンを添えてくれる。ソースはタルタルソースである。あっさりした味で何匹でも食べられる。地元の炭酸のきいた白ワインがさらに美味しさを倍加してくれる。先生ご夫妻は、久しぶりに逢った私達とのんびりとドライブをしたため、リラックスされてお疲れがとれたようだ。
会計に立った私が支払をすませていると、レジのそばに来た小ぶとりのご主人であろうコック姿の人が、 「キミはフランス語がうまいね、どこの国からきたの?中国人かい?」 といわれるのがいつものパターン。言葉をほめられて、 「日本人です。コックの勉強でコペに来ています」 「へえ、コックなの。ところで今日のペルシュはどうだった?」 「おいしかったですよ。お連れした私の先生ご夫妻も大満足です」 「そうかい。どうだ、よかったら調理場をみていくかい?もう暇になったから」 とご主人は私を調理場に案内してくれた。きれいに片づけがすんでいて、気持ちのよい調理場だ。掃除をしているスペイン人がニコニコとあいさつをしてくれた。コックは、ご主人と若いコックが2名いただけである。テーブルに戻って先生に「調理場までみせてもらいました」と報告すると「日本にいる若いコックが勉強にこちらに来たいのだけどどうかな?この店で雇ってくれないかな。こじんまりとしたこのくらいの店で、勉強させたいね」。
※私達は「ペルミション(労働許可証)」をスイスの国で発行し、この許可証があるから給料をもらい、部屋をあてがってもらって無事に問題もなく働くことができた。最初はベルン市、次にコペという小さな街で働くことができるのも「ペルミション」があるからである。
先生は簡単に云うが、「難しいことです」といいながら私は、もう一度ご主人のところにいって、「日本にいる若いコックが、スイスに勉強に来たいのだけど、ここで雇ってくれないかな?もちろんペルミションをとってもらいたいが」と難しい事と知りながら話をしてみると、「いいよ、私のところで、勉強させてやるよ。ペルミションもとってやる」と簡単に引き受けたのである。もう先生は、そのとき、調理場にやって来て、私たちの会話に入り込んできた。得意の先生のフランス語だが、どうにもご主人には通 じないのである。先生の言葉は「フランス・パリ」の本場のフランス語で、この地「スイス」のジュネーブをはなれたローザンヌの、しかも片田舎のフランス語。あとでわかったことであるが、のんびりとした独特の発音である。私はもうこの地で話をしているから、すっかり慣れてしまった。フランス語学者の先生のフランス語は通 じず、私の方がよく通じるのである。先生には申し訳ないが、私が通訳をして気持ちを伝えてやった。
その後、帰国した先生からはご主人にあてて手紙で申し込み、引きうけてくれたから青年をおくるという手紙も私に届き、ご主人の話を確かめる前に、日本の若いコックはスイスにやってきたのである。おかしいと思っていた私の不安は「図星」になり、その若いコックの「ペルミション」はとれず、この若いコックはペルミションを持たずに勉強するハメになった。村の警察官が坂道をのぼってくるのがみえると、この若いコックはご主人の合図で屋根うらの部屋に逃げこんでいくのである。「働いていないよ」ということになる。この若いコックは、「のんき」なところもあり、これを楽しみながらその後1年近く働いて、給料も途中からつりあげてもらってやっていたのだから、驚きよりあきれてしまった。その若いコックは小路(明)君といい、あの有名な四谷の、一日一組の丸梅(完全予約制料亭)の井上梅さんの「甥っこ」ということである。今は神戸で、コックはとっくに辞めて会社の経営者になっている。
若いコックを一方的におくる先生のおかげで、その後、同じような方法で何十人という若いコックたちがスイスにやってきて「ペルミション」なしで働き、警察のウラをかいて給料をとっていたのだから、荒っぽい武者修行をさせられたものである。今、その若いコックたちが、私のまわりにいる仲間たちなのである。「ペルミション」をもって働いていた私たちより、その後、同じ方法でフランスに渡り、技術をしっかりと勉強してくるのであるから、「きっかけ」とは、何が幸いするかわからないものである。先生のフランス語を現地のフランス語に訳した私は、今だかつて本場のフランス語の発音ができないでいる。先生も苦笑いしていたことであろう。
05. おでむかえ
旧軽井沢の駅を降りると、今の駅前とは異なる風情のあるタクシーのりばに向う。乗降客がホームにあふれかえるシーズン中は、ほとんど私たちの軽井沢行きはないので、静かな軽井沢を訪ねることができる。タクシーに乗り「山本直文先生宅」と名前を告げると、間違いなく山本先生宅まで連れていってもらえる。
浜松に移ってからは、秋田純平さんと一緒に出かける事が多くなり、富士川から山梨にぬ け、清里から望月、小諸を通って軽井沢に入る。このコースは高速道路やバイパスが出来たりして多少の変化はみられたが、通 いなれたるドライブコースであった。スイス時代の仲間でもあった秋田さんとは、この道中がとても楽しく、毎年の欠かさない先生宅訪問の一つであった。
軽井沢の中でもひと際簡素な場所にある先生宅は、タクシーで行けば間違いないのだが、こちらが探して行くとなると大変である。慣れればどんな場所でもわかるのはあたり前であるが、年に一、二回では、ついうっかり見落としてしまうのである。手入れの行き届いた杉の木立ち、車道と舗道に分かれているのでさらに静けさが伝わる。舗道から十メートル程のところに「山本」とだけ書かれた表札がある。まったく目立たないから、車で探すとなるとつい見落としてしまう。行きつ戻りつはよくあることで、毎度のことであるが表札を見つけるとホッとする。高さ三十センチぐらいの木に「山本」とだけ書かれているから、目立たない表札である。お屋敷はその奥、三十メートルぐらいのところにある。手入れの行き届いた庭木にも、軽井沢特有の静けさが感じられる。
車の音を聞きつけた先生ご夫妻は、玄関まで来て迎えてくれる。先生の大きな身体が玄関をふさぎ、来客のもてなし方が家中に広がっているように感じる。先生は誰に対しても同じようにして迎えてくれる。決して多くの言葉は語らないが、先生の「やあ、こんにちは」で半年間のご無沙汰が「サーッ」と消えていく。
先生と奥様が迎えてくれたあの軽井沢の「山本邸」は今はない…が、私のまぶたにはいくつになっても消えない、師の面 影である。
06. フランス語教室
日本のフランス料理界にあって、山本先生は、明治の勝海舟や、西郷隆盛に影響を与えた「佐久間象山」に似ている。
私たちの大先輩たちが、仕事を通 じてどうしてもクリアしなければならないのが「フランス語」であった。メニューを書き、初めはふちょうに近い言葉も、その意味が解らねばならぬ ことに気がつく。調理場において調理の技術が上達していくのは当然で、これについていかないのが、フランス語の理解度であった。料理界の大先輩たちがどのようにして山本先生とお付き合いを始めたのか、それは私にはわからない。
私が、山本先生と初めてお逢いしたのは、私が十八歳のころ。斎藤文次郎さんが富友会という会の会長となり、全日本司厨士協会が出来たころであった。当時、古びた田町の建物の二階で行なわれた山本先生のフランス語教室があった。生徒は三十名程と満員で、半数以上が女性であり、学校の先生方であった。若いコックと、年配のコックとそれぞれ同数であったろうか。月に一回というこの教室は、非常に活気があり、先生の矢のようにとんでくるフランス語に、珍しく興味津々で通 ったのである。半年ほどすると教室に席のゆとりが出はじめ、一年たつと残っている人は、十名程になっていた。
五名になり三名になり、ついに私一人になったそこの頃、教室でのレッスンではなく会を訪れる先生が、原稿やら、本のこと、出版関係のことなど話をされるのを待って、用事がすんだ先生の「カバン」を持って駅まで歩いていく。あるときはTホテルの調理場へ、またはSホテル、Nホテルなど先生は立ち寄られた。小さな街のレストランで働いていた自分にとって、これは最高の勉強の場であった。どのホテルのコック達も皆洗練され、張りと活気があった。調理事務所を訪れる先生を迎える料理長もまぶしい輝きがあり、先生との会話もパリの話や外国の話である。そこはまったくの別 世界であった。
街の中のレストランを好きになり「料理を習うならここだ」と決めていた私には、大変なカルチャーショックであった。洋食屋の料理の旨さを、なんとか早く一人前になって覚えようとしていた私には、別 なる道があることに気づかされた。しかし今は先生のカバン持ちの身分であった。それでも、最初のうちはそれを打ち消す気持ちは大いにあった。「まだ何も覚えていないじゃないか、身分を知れ」「洋食屋の本?すじも知らないじゃないか」。「カレー」一つとっても、ようやく粉を使用しない野菜でつくるスマトラカレーを覚え、有頂天になっていたし、デミ・グラスでつくるシチューのかたまりを目の前にして、「すげえやー」とおどろいている自分が、別 なる世界「フランス料理」を、しかもあの洗練されたホテルのコックさんたちのようになれるだろうか…。といったジレンマにおそわれた。
先生は、そんな私の気持ちを知ってか、先生の訪問先は街のレストランまで幅が広い。Pレストラン、Kレストラン、Mレストラン。なんとそこには、協会誌の中で執筆されている大先輩たちがいるではないか。先生の訪問される用事は、短時間で済む。「フランス語」「料理」のこと、フランス文化のこと、この先輩達の会話は、もう料理人というより別 世界の人たちであった。私のカルチャーショックは、先生の訪問先でどんどんと膨れあがり、ついに破裂するのであった。
この先生のカバン持ちで芽生えた気持ちが、やがて外国に行こうと自分をせかせたのである。フランス語をまず覚えること、これが第一。そのためにはきちんと休日がとれるところ。旅費をためるための給料の安定したところ。この気持ちが、次の職場を決めさせたのである。そこが、渡欧まで働いた銀座八丁目の「千疋屋」であった。この就職には、先生も喜んでくださった。くだもの、チーズ、その他野菜まで勉強するにはすばらしい職場となり、とくにサービス(ウエイター)の仕事を、Tホテル出身の支配人から教えていただいたことも、私の今のオーベルジュにつながっている。 NHKのフランス語を店の屋上で休けい時間に聞くことができたのも、この安定した良き職場であったからだ。ある日の午後、山本先生に立ち寄っていただいた時、そのお相手が秋山徳蔵(天皇陛下の料理人)さんだったのも、あとから聞いたことで知った。先生の行くところ、全て、料理人のいるところであった。
この銀座八丁目の千疋屋は今はない。
07. きも吸
今は、スローフードや地産地消などの言葉が氾濫して、さかんに食品の安全性をアピールしているが、先生の食品に関する言葉は、絶えず「安心」が第一であり、肉や魚の加工品の中に入る添加物を、事のほか嫌っていた。
本当かどうか私にはわからないが、先生は「ブルチーズの中に添加物が加えてある」と云って、この種のチーズを買う場合、フランスのロックフォール以外は買わなかったように思う。「たらの子」も、色つきでないものを選んだし、「いくら」も「うに」も必要以上に添加されていないものを買い求めていた。
軽井沢で留守番をしている、奥様からのお遣いの時もあるが、食品に関してはお二人共、同じお考えをもっていたようだ。デパートの中を先生について歩きまわり買い物を済ませると、先生お好きの「うなぎ屋」に入る。この店も必ず決まっていて「弁慶」という「うなぎ屋」に行くである。弁慶はそれから十数年後、軽井沢にも店を出したが、本店の味ではないと云って、一度も、軽井沢店の「うなぎ」は食べさせてもらえなかった。先生には「うなぎ」の食べ方が決まっていた。「いつものを」というだけで店の人たちは、先生の注文どおりの「うな重」をつくってくれる。
まずフタをあけると同時にすばやく山椒の粉をふりかけ、すぐにフタをする。待つこと10~15秒ぐらい。そこでフタをあけて食べ始める。これが、早くても遅くてもいけない。「10秒待つのだぞ」という顔つきをして、私の動作をみている先生には、いたずらっぽい子供のようなところがある。
「私が〈化学調味料〉を認めるのは、このうなぎを食べるときの〈きも吸〉だよ。これには入っていないと吸物の味がしない。〈うなぎ〉の味は、きついんだな」。先生はこう話しながら、化学調味料が、たっぷりと入った「きも吸」をおいしそうにのんでいた。「うなぎ」は、先生の大好物だったのである。
08. 地方のフランス料理店
二十八歳で帰国した私が、浜松の友人・秋田(純平)さんから誘われ、浜松の成子に新築され結婚式場も兼ねた総合レストラン「オーク」という店に料理長として勤めることになる。帰国したばかりの私には、都会をはなれることに抵抗はあったが、秋田さんに誘われたのが、浜名湖で舟を出して釣りをしている時であった。
くどかれているとき、やたら魚がつれた。タイ、皮ハギ、コチ、トラフグ、と、次々と別 な獲物がかかってくる面白さ。逆に云えば、ポイントが決まっていないから別 の獲物になるのがわかったのは、浜松に来てからのことであるが…。
そんな、ウキウキ気分でいるとき、浜松に来ることを承知してしまった。あわただしい開店を無事成功できたのも、友人の川崎(○○)さんが、内弟子を三人も送りこんでくれたり、日活ホテルの土井(○○)料理長が二日がかりで手伝いに来てくれたりしてくれたおかげであった。軽井沢の先生も、奥さまとご一緒に、浜松まで来てくださった。二十八歳の新米料理長が、地方とは云え、大きな総合レストラン、従業員・七十名、調理場・三十名の大所帯をもったのであるから、てんてこ舞の大いそがしさであった。
一段落がつき、先生のお泊まりになっているホテルへごあいさつに伺うと、「今井君、浜松はまだまだ遅れているねえ。ホテルのロビーを浴衣で客が歩いているし、レストランの中にも入ってくるよ。まず、料理を作るよりお客のマナーだな」。先生は、ひとしきり、浜松のレベルの低さを嘆いていた。このことに私が気がつくのは、やがてオープンした当日からである。優しくわかりやすいメニューを作り、ウエイターをトレーニングし、用意万端でオープンしたのであるが、何分にも外国帰りのプライドがやたらうごめき、無理なことばかりだったのであろう。目茶苦茶なオープンだったのである。
まず、自分たちが反省すべき点は反省し、なおせば済むことであるが、土地柄というか、おっとりとした気性がなせるのか、予約時間に客が集まって来ない。三十分、一時間遅れは普通 で、それなら「浜松時間だろう」とそれに合わせると、三十分前から来て「食事をはじめろ」という。下の階のレストランは予約なしで食事が出来る軽食風(今で云うカフェテリヤ)のメニューであったが、ハンバーグ、シチュー、グラタンの食べ残しがやたらと続く。残飯ボールに残ったそれらを食べてみても、決してまずくはない。あれ程トレーニングをして皆で納得した料理であったから、なおさら気を重くした。やがてそれが「スパイスの使いすぎ」であることに気がつき、浜松市内で働いていたコックたちをストーブに移し、わざわざ東京から来てくれた応援コックをウラ方にまわした。すると、料理が残らなくなった。シチューは、ケチャップで味つけした「甘ったるい味」、ハンバーグなどはスパイスを控えめ、それにケチャップとデミグラスが半々のソース。これがきれいに食べられていた。ステーキは醤油味。皿につけられた、キャベツサラダのドレッシングは、和風ドレッシングであった。
このスタートは、私の人生観を変えさせた。先生いわく「大変だよ浜松は」。このとき、先生は料理のことは何もおっしゃらなかったが、都会とははるか離れたこの土地が、何かにつれて遅れていることを「マナーのしつけ」ということで先生はおっしゃった。先生は、普段弱い人たちのことを批評することは一度もない。先生は強者に向って文句を云うことはあるが、それは見えないたちの悪いものに向ってである。
散々なオープンであったが、応援コックや、地元のコックたちのガンバリが少しずつ発揮できるようになった日は以外と早く訪れたのである。当時、おろし売り団地が浜松市内に出来た。約百五十社ぐらいが争うように新社屋を建て、この新社屋パーティが行なわれたのである。最初に受けたパーティがうまくいったのを、このパーティに出席した別 のオーナーが、当社のオープンは「オーク」でやろうということになり、その注文は次から次へと続いた。終ってみればなんと団地の八十%以上が当店でパーティをやったことになる。
この成功裏には、営業の人の活躍を見逃すことは出来ないが、全社員一団になって事をやったことにつきる。地方では、コックはたくさん集まるが、サービスをする人がなかなか集まらない。そこで私は、コックを増やし、料理をつくったあと、コートをとり替えウエイターにする。料理作りとサービス、これを両方やらせたのである。多いときには、ウエイターの方にまわるのが三分の二ぐらいになるときがある。結婚式には私も黒服を着て新郎新婦ご誘導をやったりしたときもある。この「全員サービス精神」が功を果 たしたのである。パーティ会場には、必ずモギ店をつくった。寿司、そば、てんぷら、ヤキトリのコーナーをもうけ、それにコックをそれぞれつけて実演させたのである。そして中央テーブルには、フランス料理を食べやすい一口サイズのポーションでプラッター盛りにし、とにかく食べやすさを演出した。その間には、浜松の人たちの好きな「さしみ」や、ゆでた「海老」などをおいて料理がバラエティに富むようにした。やがてパーティが終わるころには、「オークのフランス料理はうまい」というのが、評判になってきたのである。
結婚式も増え、各種食事会も、「フランス料理を食べる」というムードに変わってきたのである。それは先生が来浜し助言をしてくれた日から三年はたっていたのである。今、山荘を訪れてくれるお客さまの中で、「昔オークで私たち式をあげたのよ。その時の料理長が今井さんだったのよ」。聞けばこの家族連れ、小さな孫まで連れている。親子三代にわたって、再び私の料理を食べに来てくれるのである。
先生の一言が今も生き続けているのである。
09. 先生とラモーさん
エスコフィエ博物館長ラモーさんご夫妻をご案内して京都、神戸、長野と旅をした。
ラモーさん自身は三度目の来日で、奥様をフォローしながらの、のんびりとした旅であった。ラモーさんは、日本のことを知りつくしていて、京都にいたっては、ご自身で見学するところを選んでいた。歩くのがきついところは避け、また人の多いところはコースに入っていなかった。この役目を引き受けるにつけ、小野(正吉)会長からは、ラモーさんと相談して好きなようなスケジュールをつくるようとのことであった。約八日間、終り一日が軽井沢に行くようにとの決めごと以外は何もなく、朝食のときに「今日は、どうしましょうか?」というような、いたって楽なつきそいであった。おつかれで朝食は部屋でとることもあった。昼食や夜の食事をこちらで用意しなかったときは、ルームサービスやカフェテリヤの単品を好んで食べた。
来日して、すぐに、「てんぷら」や「すきやき」「ヤキトリ」など東京で食べられたとみえ、私には食事の打ち合わせの都度「〈すきやき〉は、もう食べているからね」と笑いながら、おっしゃった。あの醤油煮と、油っぽい「てんぷら」は一度でよいということであった。そば、うどんも一回でよかったし、醤油味は「もういいよ」ということであった。
京都地方の当時のホテルではなかなかフランス料理をおすすめできる店がなかったのと、私の知識もうとかったので、「さあ食事」となると困ったのである。はじめのうちは、ご遠慮されていると思っていたのであるが、ラモーさんとはニースのエスコフィエ博物館を訪ね、アンティブのラモーさんの住まわれている町でしばらくホテル住まいをしたこともあり、気心は知れていた。だから、私には遠慮なく、思っていることが云えたはずである。見学も一日二、三ヶ所。ゆっくりの旅は続き、クライマックスは軽井沢、山本先生宅訪問となった。
東京へ一旦戻り、定宿ホテルオークラに一泊したので、すっかりお二人ともリラックスされたようであった。オークラには小野会長はじめ、大庭(巖)氏が、なにくれと面 倒をみられるので、それを気づかっての外交的な元気かと私には思えたがそのようではなく、オークラというホテル全体にいやされたようである。「ピザ」が食べたいなどと昨夜は元気だったし、ワインも少しおのみになったのである。気力が回復して軽井沢への旅となった。
この何日間の旅行中、ラモーさんは何回も「山本先生は、どうしているの」「いつ逢うの」としきりに私にたずねた。ラモーさんは、山本先生に逢うのを楽しみにしていたのである。それなら最初から軽井沢を訪ねるコースをとればよかったのに…とつい付き添いの「グチ」も出たが、会長から大庭氏へ、そして私に伝達された今回のラモーご夫妻の「日本の旅」は、それに従うしかなかったのである。
私たち一行が、先生宅を訪れたときには、先生ご夫妻は外までお迎えに出て、日仏友好の絆が結ばれたのである。会話ははずみ、いつまでも家の中に入らず、庭先でのシーンが二十数年たった今でも、私の脳裏によみがえってくる。先生のはっきりとした大きな声のフランス語の発音にあわせ、ラモーさんのフランス語もいつものニースなまりではなく、パリの上流フランス語であった。スイスなまりの私のフランス語の入る隙間はなかったし、その日、私たちは何を食べたのか、いつ帰ったのか、まったく記憶には残っていない。ただ、旧友が親しく話しあっている姿があまりにも印象が強すぎたことには、間違いないのである。
その後、先生とラモーさん亡き後、山本先生の奥様が、ラモーさんの墓のあるニース近くの△△△村まで行き、フランスでも珍しい「本の形」をした墓標の前で、日本から持っていった石の像を供えて祈られていたのが、私にはさらなる落涙を誘ったのである。奥さまはこのためにツアーに参加し、その足でニース駅からパリへの夜行列車にのり、翌日、日本へ帰ったのである。