
「西洋の板前」
成人式に田舎に帰る。中学校で久しぶりに昔の仲間と逢いおおいに盛り上がった。「今井は何をしているんだ?」「コックだ」と答えると、「へぇー」と言ってその後の質問はほとんどない。
「ようするに板前だよ。洋食の板前だよ…」と説明すると、また「へぇー」という分かったのかどうか不機嫌そうな顔をするのである。 「コック」特にフランス料理のことは、ほとんど田舎の人たちには理解されなかったのである。テレビの普及は田舎にはまだ少なく、料理の番組もほとんど無かったのであるから、「コック」は何の職業なのか分からなかったのである。 まだ板前というのは分かってもらえたが、「包丁一本サラシに巻いて」の「ヤクザ」な仕事と見てとられたのである。「へぇー、西洋の板前け」と納得されても、どんなことをしているのか、その後の言葉は出なかったのである。
田舎にはその後、ほとんど帰っていない。暇が無いというより、田舎に家が無くなったのが原因である。引越しをしてしまい、田舎の友たちとも便りがだんだん途絶えてしまった。
その後、8年くらい経ってから、妻と長女を連れて田舎の友人を訪ねたことがあった。特に仲の良かった友人宅を訪問。1時間くらいであったが田舎の気分を味わうことができた。このころはフランス料理やコックという職業は分かってもらえたし、テレビの料理番組も盛んであったから、「一度食べたいなー、今井の料理を」という友人に「必ず…」といって約束したものだ。
その後、西ドイツでの「FKA13」料理オリンピック大会に日本代表として出場し優勝をした。「テレビ」での出演もあって、田舎の人たちにもその姿を見てもらうことができた。中学校の校長先生が、全校生徒に私のテレビ出演を見せて共に喜んでくれたという便りをもらったのも嬉しい事であった。
「コック」という職業が分からないときから数えると、10年くらいの年月はすばらしい変化があったのである。自分にとってはチャンスであった「ドキュメンタリー」テレビ出演は、更なる田舎の人たちに「コック」姿を見せる結果となった。
「一日一組レストラン」「日本テレビ…」は、一時間番組であったので、自分でも驚くほどの反響であった。予約制のレストランはおかげ様で3年先の予約まで入ってしまった。それ程までに興味をもたれた番組を、田舎の人たちも見てくれたのである。「西洋の板前」は、「フランス料理のシェフ」という肩書きとなり、「コック」として認めてもらうことができた。中学時代お世話になった先生からお手紙をいただいたりして感激したのもこの頃であった。
懐かしい思い出一杯の中学校が廃校になると聞き、OBの人たちにも手伝っていただき、中学校を訪ね、全校生徒やたくさんの父兄を前にして講演をした。もちろんコックコートを着て、ナイフやフライパンを使って技術をお披露目した。たくさんの拍手をもらい嬉しかったが。生徒の中で「将来、料理の世界に入りたい」という「寄せ書き」をもらったときは、思わず涙がこぼれたのである。
成人式に田舎に帰る。中学校で久しぶりに昔の仲間と逢いおおいに盛り上がった。「今井は何をしているんだ?」「コックだ」と答えると、「へぇー」と言ってその後の質問はほとんどない。
「ようするに板前だよ。洋食の板前だよ…」と説明すると、また「へぇー」という分かったのかどうか不機嫌そうな顔をするのである。 「コック」特にフランス料理のことは、ほとんど田舎の人たちには理解されなかったのである。テレビの普及は田舎にはまだ少なく、料理の番組もほとんど無かったのであるから、「コック」は何の職業なのか分からなかったのである。 まだ板前というのは分かってもらえたが、「包丁一本サラシに巻いて」の「ヤクザ」な仕事と見てとられたのである。「へぇー、西洋の板前け」と納得されても、どんなことをしているのか、その後の言葉は出なかったのである。
田舎にはその後、ほとんど帰っていない。暇が無いというより、田舎に家が無くなったのが原因である。引越しをしてしまい、田舎の友たちとも便りがだんだん途絶えてしまった。
その後、8年くらい経ってから、妻と長女を連れて田舎の友人を訪ねたことがあった。特に仲の良かった友人宅を訪問。1時間くらいであったが田舎の気分を味わうことができた。このころはフランス料理やコックという職業は分かってもらえたし、テレビの料理番組も盛んであったから、「一度食べたいなー、今井の料理を」という友人に「必ず…」といって約束したものだ。
その後、西ドイツでの「FKA13」料理オリンピック大会に日本代表として出場し優勝をした。「テレビ」での出演もあって、田舎の人たちにもその姿を見てもらうことができた。中学校の校長先生が、全校生徒に私のテレビ出演を見せて共に喜んでくれたという便りをもらったのも嬉しい事であった。
「コック」という職業が分からないときから数えると、10年くらいの年月はすばらしい変化があったのである。自分にとってはチャンスであった「ドキュメンタリー」テレビ出演は、更なる田舎の人たちに「コック」姿を見せる結果となった。
「一日一組レストラン」「日本テレビ…」は、一時間番組であったので、自分でも驚くほどの反響であった。予約制のレストランはおかげ様で3年先の予約まで入ってしまった。それ程までに興味をもたれた番組を、田舎の人たちも見てくれたのである。「西洋の板前」は、「フランス料理のシェフ」という肩書きとなり、「コック」として認めてもらうことができた。中学時代お世話になった先生からお手紙をいただいたりして感激したのもこの頃であった。
懐かしい思い出一杯の中学校が廃校になると聞き、OBの人たちにも手伝っていただき、中学校を訪ね、全校生徒やたくさんの父兄を前にして講演をした。もちろんコックコートを着て、ナイフやフライパンを使って技術をお披露目した。たくさんの拍手をもらい嬉しかったが。生徒の中で「将来、料理の世界に入りたい」という「寄せ書き」をもらったときは、思わず涙がこぼれたのである。

山本先生の「フランス語」
全日本司厨士協会の前身である「富友会」の事務所に、一通の紹介状をもって訪ねたのは、19 才の時であった。
古い建物の2階で紹介状を渡し、年配の事務の女性から「コック」としての会員資格らしい書類を作成してもらうと、「会員」になれた嬉しさがこみ上げてきた。
渡された会報のページをめくると、そこには白黒であったが料理の写真があり、その料理を作った調理場の写真が載っていた。「Oホテル」「Nホテル」などが紹介され、何回かその名前は聞いたことのある料理長の顔写真が大きく載っていた。
この日が「コック」としての記念日となる。今までの自分は小さな職場の中で料理をつくることだけに熱中し、料理界の事は何ひとつわからなかった「井の中のカワズ」であった。たまたま先輩の持っていた「会報」に興味を持ち、その「会」に入会すると「コック」の勉強ができると教えられ、紹介状を書いてもらって「事務所」を訪ねたのである。
「協会」では「フランス語」を教えてくれるということを知ったのも大きな収穫であった。月に一回行なわれる「フランス語教室」に参加することができた。山本直文先生とのお付き合いは、このようにして始まったのである。
「勉強会」の出席者の半分は女性であった。大学の家庭科の先生方で気品があり、インテリであった。残り半分はコックである。語学を勉強しようと集まったコックたちは、今までの自分の周りにはいなかったタイプの若者たちで、教室は「やる気」でむせ返るようであった。
コック達の勤めているホテルやレストランは、業界のトップクラスであり、その職場で働いている人たちには輝きがあった。生徒さんたちの質問は、料理にしても、またフランス語になっても、その内容は高度であり驚くと同時に、カルチャーショックを受けたのである。
山本先生はすばらしい人であった。このような方が業界のために「お力(オチカラ)」を貸してくれるということは(「全日本司厨士協会」……このころ富友会が中心になり、全国のコックの会がまとまったのである…会員数約2万人…)ありがたいことであった。
月の一回の「フランス語会話教室」は実に楽しく、その日が待ち遠しかったのである。フランス語は、英語も中学で習わなかった自分にとって大変難しく手におえないものであったが、山本先生のフランス語を通して話してくれることが、全て勉強になったのである。先生の発音される単語のひとつひとつがきれいなリズムになっていて、フランス語の言葉はわからないが、親しみを感じたのである。
途中で休憩時間があるが、全員が席から離れないで先生との雑談にお付き合いをするのであった。パリの市場の話、セーヌ川、高級レストランでの食事の話など、聞くもの全てが身体をゆする程「興奮」させたのである。
「若い君達は、ぜひ本場のフランス料理を見てくることだ」、「フランスに行きなさい」。
この言葉がその日を境にして頭から離れなくなったのである。
全日本司厨士協会の前身である「富友会」の事務所に、一通の紹介状をもって訪ねたのは、19 才の時であった。
古い建物の2階で紹介状を渡し、年配の事務の女性から「コック」としての会員資格らしい書類を作成してもらうと、「会員」になれた嬉しさがこみ上げてきた。
渡された会報のページをめくると、そこには白黒であったが料理の写真があり、その料理を作った調理場の写真が載っていた。「Oホテル」「Nホテル」などが紹介され、何回かその名前は聞いたことのある料理長の顔写真が大きく載っていた。
この日が「コック」としての記念日となる。今までの自分は小さな職場の中で料理をつくることだけに熱中し、料理界の事は何ひとつわからなかった「井の中のカワズ」であった。たまたま先輩の持っていた「会報」に興味を持ち、その「会」に入会すると「コック」の勉強ができると教えられ、紹介状を書いてもらって「事務所」を訪ねたのである。
「協会」では「フランス語」を教えてくれるということを知ったのも大きな収穫であった。月に一回行なわれる「フランス語教室」に参加することができた。山本直文先生とのお付き合いは、このようにして始まったのである。
「勉強会」の出席者の半分は女性であった。大学の家庭科の先生方で気品があり、インテリであった。残り半分はコックである。語学を勉強しようと集まったコックたちは、今までの自分の周りにはいなかったタイプの若者たちで、教室は「やる気」でむせ返るようであった。
コック達の勤めているホテルやレストランは、業界のトップクラスであり、その職場で働いている人たちには輝きがあった。生徒さんたちの質問は、料理にしても、またフランス語になっても、その内容は高度であり驚くと同時に、カルチャーショックを受けたのである。
山本先生はすばらしい人であった。このような方が業界のために「お力(オチカラ)」を貸してくれるということは(「全日本司厨士協会」……このころ富友会が中心になり、全国のコックの会がまとまったのである…会員数約2万人…)ありがたいことであった。
月の一回の「フランス語会話教室」は実に楽しく、その日が待ち遠しかったのである。フランス語は、英語も中学で習わなかった自分にとって大変難しく手におえないものであったが、山本先生のフランス語を通して話してくれることが、全て勉強になったのである。先生の発音される単語のひとつひとつがきれいなリズムになっていて、フランス語の言葉はわからないが、親しみを感じたのである。
途中で休憩時間があるが、全員が席から離れないで先生との雑談にお付き合いをするのであった。パリの市場の話、セーヌ川、高級レストランでの食事の話など、聞くもの全てが身体をゆする程「興奮」させたのである。
「若い君達は、ぜひ本場のフランス料理を見てくることだ」、「フランスに行きなさい」。
この言葉がその日を境にして頭から離れなくなったのである。

「フランスへ行きたい」
「協会」の事務所の階段を上がると、そこは未来のシェフになるべき若きコックたちの勉強部屋であり、そして訓練の場であった。
大学の先生方はノート一杯に質問を書いてきて、休憩時間などを利用して、この若いコックたちに答えを求めるのであった。
「スパゲティの一種であの細い麺は何と言うの」 「トリュフの生はどんな味なの」 「フォグラはどんな料理が一番おいしいの」
「デミグラスとエスパニョルソースの違いは…」 「マデラ酒の使い方は…」 「シャンパンの開け方は…」 「アボガドの切り方は…」 「パパイヤは…」……もう質問責めである。
知っていることを聞かれれば答えることができるが、この時の自分は知らないことが多すぎたのである。しかし、ホテルから来ているN君やK君は何でも答えることができ、いつも話の輪の中心にいた。これを部屋の片すみで見ている自分は惨めであった。―自分の勉強不足はどうすることもできない-話題についていけないのは同じコックとして、これ以上の屈辱はない。
自分は見習いから一人前のコックになっていると錯覚していた。フライパンで肉や魚を焼く。オムレツを形よく焼ける。スープがつくれる。揚げ物も自信がある。だがそれは料理人としてほんの一部のことであって、まだ半人前にもなっていなかったのである。N君やK君は年令的には一緒くらいだが、その知識は問題にならない程豊富であるし、職場全体が勉強の場になっているのである。それらの知識を知ったうえで、さらに語学を勉強しようとしているのである。
勉強の場所を移すことだ。やはり良い場所に移ってコックのやり直しだ。そして必ず本場フランスに行くことだ。そのためにはまず、フランス語を覚えること、これが第一で、そのためにも勉強の出来る職場を探すことだ。この気持ちを二度程、ヘルプで行ったレストランKのシェフ、Nさんに話した。Nさんは数年前までOホテルにいたので仕事内容もしっかりしていた。何より若い人の話を真剣に聞いてくれるので尊敬をしていた人であった。
Nさんは私の「将来フランスに行きたい」という話に大きくうなずき、「これからは外国だ、是非行きなさい。まず勉強が続けられる職場に行くとよい。」こうして紹介されたのが銀座八丁目の千疋屋の2階にあるレストランであった。 これは自分にとって最高のチャンスであった。レストランとしての食材の使い方は他の店にヒケをとらず、チーズ、生クリームなど、当時としては何でも揃っていたし、「果物」の勉強にもなった。職場はフランス語を習うには最高であり、勉強する時間がとれることもうれしいことであった。
千疋屋はフルーツパーラーとしては有名であった。パーラーで使用するフルーツは日本一の名の通りすばらしいものであり、今までに食べたことのない味覚は大変勉強になったことは言うまでもない。休憩時間には屋上にあがって行き、小さな「携帯ラジオ」でNHKの「フランス語講座」を聞く。「R」ヱールの発音は日本人には難しい。ラジオから聞こえる「R」ヱールの「ル」が「うがい」をする時の「ゲロゲロ」に近い「ゲ」の発音をすると「くび」を天に向けて「ゲー」「ゲ」と音を出すのである。屋上で首をもたげて発音の繰り返しができるのも、よい環境に勤めることができたおかげである。
休日には「協会」のフランス語教室へ行く。 ―このようにして私のフランス語は、めきめきと上達していったのである。……と思ったのであるが、そのことに気がつくのはそれから3年後、スイスに行ってからである。この独学に近いフランス語の勉強はほとんど通じるフランス語ではなく、日本人の日本のフランス語だったのである。これを3年間続けたのである。
山本先生とのお付き合いは、「協会」のフランス語教室の生徒のメンバーがほとんど居なくなってしまうと、先生の「カバン持ち」をするようになり、先生の上京には出来るかぎりお手伝いをしながら、お話しを聞くのを楽しみにしていたのである。先生も暇をつくっては、千疋屋までわざわざおいでいただいたのである。マンゴやパパイヤは先生の大好物であった。
「協会」の事務所の階段を上がると、そこは未来のシェフになるべき若きコックたちの勉強部屋であり、そして訓練の場であった。
大学の先生方はノート一杯に質問を書いてきて、休憩時間などを利用して、この若いコックたちに答えを求めるのであった。
「スパゲティの一種であの細い麺は何と言うの」 「トリュフの生はどんな味なの」 「フォグラはどんな料理が一番おいしいの」
「デミグラスとエスパニョルソースの違いは…」 「マデラ酒の使い方は…」 「シャンパンの開け方は…」 「アボガドの切り方は…」 「パパイヤは…」……もう質問責めである。
知っていることを聞かれれば答えることができるが、この時の自分は知らないことが多すぎたのである。しかし、ホテルから来ているN君やK君は何でも答えることができ、いつも話の輪の中心にいた。これを部屋の片すみで見ている自分は惨めであった。―自分の勉強不足はどうすることもできない-話題についていけないのは同じコックとして、これ以上の屈辱はない。
自分は見習いから一人前のコックになっていると錯覚していた。フライパンで肉や魚を焼く。オムレツを形よく焼ける。スープがつくれる。揚げ物も自信がある。だがそれは料理人としてほんの一部のことであって、まだ半人前にもなっていなかったのである。N君やK君は年令的には一緒くらいだが、その知識は問題にならない程豊富であるし、職場全体が勉強の場になっているのである。それらの知識を知ったうえで、さらに語学を勉強しようとしているのである。
勉強の場所を移すことだ。やはり良い場所に移ってコックのやり直しだ。そして必ず本場フランスに行くことだ。そのためにはまず、フランス語を覚えること、これが第一で、そのためにも勉強の出来る職場を探すことだ。この気持ちを二度程、ヘルプで行ったレストランKのシェフ、Nさんに話した。Nさんは数年前までOホテルにいたので仕事内容もしっかりしていた。何より若い人の話を真剣に聞いてくれるので尊敬をしていた人であった。
Nさんは私の「将来フランスに行きたい」という話に大きくうなずき、「これからは外国だ、是非行きなさい。まず勉強が続けられる職場に行くとよい。」こうして紹介されたのが銀座八丁目の千疋屋の2階にあるレストランであった。 これは自分にとって最高のチャンスであった。レストランとしての食材の使い方は他の店にヒケをとらず、チーズ、生クリームなど、当時としては何でも揃っていたし、「果物」の勉強にもなった。職場はフランス語を習うには最高であり、勉強する時間がとれることもうれしいことであった。
千疋屋はフルーツパーラーとしては有名であった。パーラーで使用するフルーツは日本一の名の通りすばらしいものであり、今までに食べたことのない味覚は大変勉強になったことは言うまでもない。休憩時間には屋上にあがって行き、小さな「携帯ラジオ」でNHKの「フランス語講座」を聞く。「R」ヱールの発音は日本人には難しい。ラジオから聞こえる「R」ヱールの「ル」が「うがい」をする時の「ゲロゲロ」に近い「ゲ」の発音をすると「くび」を天に向けて「ゲー」「ゲ」と音を出すのである。屋上で首をもたげて発音の繰り返しができるのも、よい環境に勤めることができたおかげである。
休日には「協会」のフランス語教室へ行く。 ―このようにして私のフランス語は、めきめきと上達していったのである。……と思ったのであるが、そのことに気がつくのはそれから3年後、スイスに行ってからである。この独学に近いフランス語の勉強はほとんど通じるフランス語ではなく、日本人の日本のフランス語だったのである。これを3年間続けたのである。
山本先生とのお付き合いは、「協会」のフランス語教室の生徒のメンバーがほとんど居なくなってしまうと、先生の「カバン持ち」をするようになり、先生の上京には出来るかぎりお手伝いをしながら、お話しを聞くのを楽しみにしていたのである。先生も暇をつくっては、千疋屋までわざわざおいでいただいたのである。マンゴやパパイヤは先生の大好物であった。

「サービス」
フランス留学をめざす自分にとって、この銀座のレストランは、居心地のよい職場であった。 店で使う素材の良さは、今までに経験のしたことがないほど恵まれていた。 活きた魚貝類、肉類は最高級品、もちろん新鮮な野菜、くだものは、味覚のちがいをはっきりと知ることができた。
自分の気持ちに余裕ができたのか料理への興味も倍加したようで、まわりのことが見えてきたのもうれしい心境の変化であった。 料理をつくる、その前に素材が大切であることも、知ることができたのは大変な進歩である。
調理場でつくられた料理が「客」の前にサービスされていく、これも大切なレストランの仕事であることに気がつくのも、このレストランに働きだしてから感じたことである。
そんな気持ちから「ホール」に入れてもらい「サービス」を勉強することにした。もちろん、休日を利用して働くのである。幸いにして「調理場のコック」と「ウェイター」が伸びが良かったので実現したことであったが「フランスに行く」という気持ちをわかってもらえたことがよい結果 となったようだ。
「Tホテル」出身の支配人の「サービス」はすばらしいものであった。 歩き方から、客を向かえるすべての動作がスムーズで見ていて気持ちのよいものである。実際に、自分がやってみると、とても「ギコチ」なく、ロボットのような動きであるため、しばらくは歩き方と「おぼん」の持ち方で時間を必要としたのである。 今考えれば、よくまわりの人が「がまん」をしてくれたものと、頭が下がる思いでいっぱいである。
「レストラン」というところが、ただ食事をする。「おなか」を満たすところではない。ということがこの時、教えていただいたことが、その後の「フランス留学」に役立ったのである。
「食事」をされるお客様が、一歩「レストラン」の中に入り、「イス」に座り、楽しい「食事」となるよう、サービスをするひとつひとつのことが「ひかえ」めであり「そっと」お手伝いをしている感じの作業がいかに大切かを教えてもらったのである。
「料理」の味がこの「サービス」によって「良く」もなり「悪く」もなるのである。 この時の経験が大きく、自分を成長させたと思うのは、その頃の自分は、まだ気がついていなかったのである。
今は、「サービス」に関しての本がたくさんあり、知識を得るためには本を読むことによってある程度のことが身につけることができるが、当時はそのような本はなかったし「見つける」ことが出来ないほど知識が低くかったのである。
「フランスに行きたい」そのためには「マナー」を知っていなければならないという単純な考えから、「ホール」での仕事に飛び込んでいった自分は、若かったし、それをさせてくれた職場はこのうえない勉強のチャンスを与えてくれたのである。 このことがフランスに行ってから、されに「ワイン」についてのトレーニングに役立ったのである。
フランス留学をめざす自分にとって、この銀座のレストランは、居心地のよい職場であった。 店で使う素材の良さは、今までに経験のしたことがないほど恵まれていた。 活きた魚貝類、肉類は最高級品、もちろん新鮮な野菜、くだものは、味覚のちがいをはっきりと知ることができた。
自分の気持ちに余裕ができたのか料理への興味も倍加したようで、まわりのことが見えてきたのもうれしい心境の変化であった。 料理をつくる、その前に素材が大切であることも、知ることができたのは大変な進歩である。
調理場でつくられた料理が「客」の前にサービスされていく、これも大切なレストランの仕事であることに気がつくのも、このレストランに働きだしてから感じたことである。
そんな気持ちから「ホール」に入れてもらい「サービス」を勉強することにした。もちろん、休日を利用して働くのである。幸いにして「調理場のコック」と「ウェイター」が伸びが良かったので実現したことであったが「フランスに行く」という気持ちをわかってもらえたことがよい結果 となったようだ。
「Tホテル」出身の支配人の「サービス」はすばらしいものであった。 歩き方から、客を向かえるすべての動作がスムーズで見ていて気持ちのよいものである。実際に、自分がやってみると、とても「ギコチ」なく、ロボットのような動きであるため、しばらくは歩き方と「おぼん」の持ち方で時間を必要としたのである。 今考えれば、よくまわりの人が「がまん」をしてくれたものと、頭が下がる思いでいっぱいである。
「レストラン」というところが、ただ食事をする。「おなか」を満たすところではない。ということがこの時、教えていただいたことが、その後の「フランス留学」に役立ったのである。
「食事」をされるお客様が、一歩「レストラン」の中に入り、「イス」に座り、楽しい「食事」となるよう、サービスをするひとつひとつのことが「ひかえ」めであり「そっと」お手伝いをしている感じの作業がいかに大切かを教えてもらったのである。
「料理」の味がこの「サービス」によって「良く」もなり「悪く」もなるのである。 この時の経験が大きく、自分を成長させたと思うのは、その頃の自分は、まだ気がついていなかったのである。
今は、「サービス」に関しての本がたくさんあり、知識を得るためには本を読むことによってある程度のことが身につけることができるが、当時はそのような本はなかったし「見つける」ことが出来ないほど知識が低くかったのである。
「フランスに行きたい」そのためには「マナー」を知っていなければならないという単純な考えから、「ホール」での仕事に飛び込んでいった自分は、若かったし、それをさせてくれた職場はこのうえない勉強のチャンスを与えてくれたのである。 このことがフランスに行ってから、されに「ワイン」についてのトレーニングに役立ったのである。

「絵のうまい料理人」
天皇陛下の料理番、秋山徳蔵さんがふらりとやってきた。千疋屋の果物部の部長と親しく、時折り来店しては、3階のレストランでフルーツジュースを飲んでいくのである。時には料理長も同席をして、偉大な料理人に「あやかれる」といって、その時の話題の「メニュー」を私たちに話して聞かせるのであった。
料理長の机の引き出しの中には「古びたノート」があり、何枚かのスケッチがされた紙がはさんである。料理長はこれを宝物のように大切にしていて、一度だけであるが見せてもらったことがある。それは、秋山さんが料理長に「メニュー」の説明をしながら、盛り付け方法などを「ラフ」に書いたものである。
「鉛筆画」であるが、それらはすばらしいデッサンであった。ある時には「車海老」が「メニュー」の空いている部分に描かれていた。「サザエ」や「スズキ」もあった。料理長や部長と話しをしながら描かれたそれらの絵は、今思えば大変に値打ちのあるものであったが、当時の自分には秋山さんが「どれ程すばらしい料理人」であったか、あまり知らなかったのである。
千疋屋のフランス料理店に勤めることになって、業界のことが少しずつ分かるようになってきたのであるが、暇を見つけては「語学」を勉強したり、「山本直文先生」に会ったりしたことが、一番のコックの世界を知る「チャンス」に結びついたようである。しかし、あまりにも身近で出会う秋山徳蔵さんのことは知らなかったのが事実である。
この秋山さんの事はその後、書物やテレビなどでも紹介され「天皇陛下の料理番」として知られるようになったのはそれから2、3年後であった。
これも書物の中で知った事であるが、秋山さんは、まだ日本人がヨーロッパへの渡航も難しいころ、パリのホテルの調理場で「東洋人」、すなわち肌の色の違う人種として周囲の目にさらされ、「バカ」にされながら「料理」の修行を続けていた事を知って、とても「あの、のんびりとした老人」からそれらの事を見て取れなかった事がすごく残念に思う事と、偉大なる人は「平凡に見える」ことが「人生には大切なのだ」と分かるまでには相当な時間がかかったのである。
<10年後>
縁あって、秋山徳蔵さんが働いておられた「皇居」の調理場…すなわち御膳所…を見学する事ができた。
エスコフィエ協会の博物館長のラモーさんとご一緒に「皇居」に入り、この当時の料理長に案内されて「ゆっくり」と見せていただいた。調理場の「随所」に秋山さんの「面影」が残るような気がしたのも、お元気であった秋山さんを見ていたためであろうと、「古い道具」や今はなくなってしまったであろう、お皿を洗うための「オケ」や「ハケ」(…一枚ずつ手洗いをするためのもの…ちなみに少しでも傷の付いた皿は完全に割って処分するとのこと…)など、皇居ならではのお話を伺う事ができたのも、うれしい思い出となって残ったのである。
よい料理人はスケッチがうまいのである。目下自分も勉強中である。
天皇陛下の料理番、秋山徳蔵さんがふらりとやってきた。千疋屋の果物部の部長と親しく、時折り来店しては、3階のレストランでフルーツジュースを飲んでいくのである。時には料理長も同席をして、偉大な料理人に「あやかれる」といって、その時の話題の「メニュー」を私たちに話して聞かせるのであった。
料理長の机の引き出しの中には「古びたノート」があり、何枚かのスケッチがされた紙がはさんである。料理長はこれを宝物のように大切にしていて、一度だけであるが見せてもらったことがある。それは、秋山さんが料理長に「メニュー」の説明をしながら、盛り付け方法などを「ラフ」に書いたものである。
「鉛筆画」であるが、それらはすばらしいデッサンであった。ある時には「車海老」が「メニュー」の空いている部分に描かれていた。「サザエ」や「スズキ」もあった。料理長や部長と話しをしながら描かれたそれらの絵は、今思えば大変に値打ちのあるものであったが、当時の自分には秋山さんが「どれ程すばらしい料理人」であったか、あまり知らなかったのである。
千疋屋のフランス料理店に勤めることになって、業界のことが少しずつ分かるようになってきたのであるが、暇を見つけては「語学」を勉強したり、「山本直文先生」に会ったりしたことが、一番のコックの世界を知る「チャンス」に結びついたようである。しかし、あまりにも身近で出会う秋山徳蔵さんのことは知らなかったのが事実である。
この秋山さんの事はその後、書物やテレビなどでも紹介され「天皇陛下の料理番」として知られるようになったのはそれから2、3年後であった。
これも書物の中で知った事であるが、秋山さんは、まだ日本人がヨーロッパへの渡航も難しいころ、パリのホテルの調理場で「東洋人」、すなわち肌の色の違う人種として周囲の目にさらされ、「バカ」にされながら「料理」の修行を続けていた事を知って、とても「あの、のんびりとした老人」からそれらの事を見て取れなかった事がすごく残念に思う事と、偉大なる人は「平凡に見える」ことが「人生には大切なのだ」と分かるまでには相当な時間がかかったのである。
<10年後>
縁あって、秋山徳蔵さんが働いておられた「皇居」の調理場…すなわち御膳所…を見学する事ができた。
エスコフィエ協会の博物館長のラモーさんとご一緒に「皇居」に入り、この当時の料理長に案内されて「ゆっくり」と見せていただいた。調理場の「随所」に秋山さんの「面影」が残るような気がしたのも、お元気であった秋山さんを見ていたためであろうと、「古い道具」や今はなくなってしまったであろう、お皿を洗うための「オケ」や「ハケ」(…一枚ずつ手洗いをするためのもの…ちなみに少しでも傷の付いた皿は完全に割って処分するとのこと…)など、皇居ならではのお話を伺う事ができたのも、うれしい思い出となって残ったのである。
よい料理人はスケッチがうまいのである。目下自分も勉強中である。

「一杯のコップ酒
フランス留学をめざす自分にとって、この銀座の店は居心地のよい職場であった。語学の勉強をする時間は、当然とれたし仕事の内容も非常に恵まれていた。店で使う材料は、今までに見たことのないものが多かったし素材の良さは最高であった。フランスに行く前にこのような知識をもったことは、その後、日本と外国の素材について勉強をするうえで役に立ったことは言うまでもない。
休憩時間に銀座の銭湯に行く。リラックスムードは下駄履きにあらわれ、街の中を「カランコロン」と歩いて行く姿は、現在の銀座ではとても見ることはないファッションであったと思う。今とくらべて人出が少ないのが、こんな格好をして歩いても目立たなかったのであろう。それでも、路地から路地への裏道を通ったのは、せめてもの気の使い方であった。風呂の中は、客が少なく、湯舟でおよいだりして楽しんだのである。
一方では、フランス留学の夢をもち勉強に熱中していながら、このように「のんびり」 出来たことは大変に恵まれた職場であったと言える。
職場では、仲間とのつき合いも大切である。とかく勉強ということで全てを「ギセイ」にしてしまいがちであるが、そういうことはなかったのである。その理由のひとつとして、渡欧する日がはっきりと決まっていなかったためかも知れない。「やがてフランスに行く」「行きたい」「行けるであろう」という気持ちが割合いと「のんびり」させたようである。
そんな自分に、職場の仲間は「のみに行こう」と誘ってくるのである。
「協会」からの「推薦」でその留学の資格をもらい、渡欧出来るわけであるが、現在のように、お金さえあれば外国に行ける時代ではなく、条件の中に「40万円の預金通帳」をもっていなければならなかった。当時の私の給料は、2万5千円ぐらいであったから「ためる」ためには、一銭たりとも「ムダ使い」は出来なかったのである。こんな私に「つき合え」といって「のみ屋」に行くということは「キビシイ」誘いの言葉であった。仲間とのつき合いには、断わりきれず「一杯だけね」とつき合うことにする。安い店を「ハシゴ」をする。「もう一軒」という相手に、なんとか理由をつけて帰ることも努力が必要であった。
そのうち「お金」をあまりかけずに「酔う」テクニックを習得する。それは「コップ酒」を一杯「ぐいっ」とひっかけ「つまみ」は「他人の食べている」のを横目でながめて「がまん」をして、「お金」を払うと全速力で駅まで走り、いっきに階段をかけあがるのである。この時には、若さという「すばらしい体力」があったから「ハアハア」しながらも「じわっと」酔いがまわってくるのを楽しむことができたが、今では「たちまち」「あの世行き」になってしまうことであろう。一杯ひっかけた酒が3杯の気分に「ひたれる」と、この手法を仲間にもすすめたものである。こんな努力を通帳の預金高を預けるためには必要だったのである。
フランス留学をめざす自分にとって、この銀座の店は居心地のよい職場であった。語学の勉強をする時間は、当然とれたし仕事の内容も非常に恵まれていた。店で使う材料は、今までに見たことのないものが多かったし素材の良さは最高であった。フランスに行く前にこのような知識をもったことは、その後、日本と外国の素材について勉強をするうえで役に立ったことは言うまでもない。
休憩時間に銀座の銭湯に行く。リラックスムードは下駄履きにあらわれ、街の中を「カランコロン」と歩いて行く姿は、現在の銀座ではとても見ることはないファッションであったと思う。今とくらべて人出が少ないのが、こんな格好をして歩いても目立たなかったのであろう。それでも、路地から路地への裏道を通ったのは、せめてもの気の使い方であった。風呂の中は、客が少なく、湯舟でおよいだりして楽しんだのである。
一方では、フランス留学の夢をもち勉強に熱中していながら、このように「のんびり」 出来たことは大変に恵まれた職場であったと言える。
職場では、仲間とのつき合いも大切である。とかく勉強ということで全てを「ギセイ」にしてしまいがちであるが、そういうことはなかったのである。その理由のひとつとして、渡欧する日がはっきりと決まっていなかったためかも知れない。「やがてフランスに行く」「行きたい」「行けるであろう」という気持ちが割合いと「のんびり」させたようである。
そんな自分に、職場の仲間は「のみに行こう」と誘ってくるのである。
「協会」からの「推薦」でその留学の資格をもらい、渡欧出来るわけであるが、現在のように、お金さえあれば外国に行ける時代ではなく、条件の中に「40万円の預金通帳」をもっていなければならなかった。当時の私の給料は、2万5千円ぐらいであったから「ためる」ためには、一銭たりとも「ムダ使い」は出来なかったのである。こんな私に「つき合え」といって「のみ屋」に行くということは「キビシイ」誘いの言葉であった。仲間とのつき合いには、断わりきれず「一杯だけね」とつき合うことにする。安い店を「ハシゴ」をする。「もう一軒」という相手に、なんとか理由をつけて帰ることも努力が必要であった。
そのうち「お金」をあまりかけずに「酔う」テクニックを習得する。それは「コップ酒」を一杯「ぐいっ」とひっかけ「つまみ」は「他人の食べている」のを横目でながめて「がまん」をして、「お金」を払うと全速力で駅まで走り、いっきに階段をかけあがるのである。この時には、若さという「すばらしい体力」があったから「ハアハア」しながらも「じわっと」酔いがまわってくるのを楽しむことができたが、今では「たちまち」「あの世行き」になってしまうことであろう。一杯ひっかけた酒が3杯の気分に「ひたれる」と、この手法を仲間にもすすめたものである。こんな努力を通帳の預金高を預けるためには必要だったのである。

「エスワイルさん」
日本司厨士協会に渡欧申請書を提出して受理される。 我が身辺は急にあわただしくなってきた。 いよいよ渡欧の準備である。
出発がいつになるかわからないが、青年司厨士派遣員として「スイスのホテル協会」に書類を送ったと通知がくる。
健康診断書や、日本の身元引き受け人の証明書、銀行の通帳40万円の残高証明書。パスポート作成の各種書類のため田舎の役場に電話をする。
「なに…ヨーロッパへ行くんけ…何をしに。料理?食べに行くんかい…」
なにしろ、この当時はヨーロッパに行くなんてことが簡単ではなかったため、書類のために電話をした私と役場の係りの人との「かけあい漫才」は続く…時間はかかったが、無事パスポートに必要な書類は集まった。 預金通帳は、希望金額にはほど遠く問題が生じたが、「身元引き受け人」の通帳でもよいということになり、叔父に頼んでこれをどうにかクリアーする。
そんなあわただしい日を迎えている時、協会より「エスワイルさん」の歓迎会に出席せよとの通知がくる。
ワイルさんは、横浜ニューグランドホテルの初代料理長として20数年間在日され、その後スイスに帰国。このほど当時の弟子たちがエスワイルさんを日本に招待をしたために来日。この歓迎会に「青年司厨士派遣員」は出席して「アイサツ」をしておきなさいとのことであった。
スイスの「ホテル協会」が、日本の若いコック達を研修・留学させ、スイスにおいての身元を引き受けるということは、このエスワイルさんのお力添えによるものであった。その説明を当日、会場となるホテルのロビーで聞いた時は身体が震えるほど「キンチョウ」したのである。
「マッテテネ、ダイジョウブ。スイスデベンキョウデキマス」
この時のエスワイルさんの言葉は、一生忘れることのできない程、思い出として残っているのである。
外国人と話をしたことのない自分にとって初めての経験は、このワイルさんの言葉が日本語として聞こえなかったことである。
「なぜ言葉がわかるのだろう」と不思議に思い、「あれ、今のは日本語だぜ」と気がついたのは、ワイルさんが自分から離れていってからである。このエスワイルさんとの出会いがあってから「ヨーロッパに行けるんだ」という気持ちが強くなり、スイスに行くんだという目的地がはっきりしてきたのである。
協会からTホテルのK氏を紹介してもらい逢いに行く。K氏は、先日までスイス、フランス、イギリスとまわってきたので「話を聞いてくるように」とのアドバイスであった。
K氏は「そうだなー、スイスは朝9時になっても暗かったな」「それから寒かったぜ」という言葉に、私のノートにはスイスは9時まで暗い、寒さはとくにきびしい」…と、メモ書きをしたのである。
今なら考えられない程、スイスについての知識がなかったのである。本屋に行っても調べるほどのガイドブックがなかったのである。
日本司厨士協会に渡欧申請書を提出して受理される。 我が身辺は急にあわただしくなってきた。 いよいよ渡欧の準備である。
出発がいつになるかわからないが、青年司厨士派遣員として「スイスのホテル協会」に書類を送ったと通知がくる。
健康診断書や、日本の身元引き受け人の証明書、銀行の通帳40万円の残高証明書。パスポート作成の各種書類のため田舎の役場に電話をする。
「なに…ヨーロッパへ行くんけ…何をしに。料理?食べに行くんかい…」
なにしろ、この当時はヨーロッパに行くなんてことが簡単ではなかったため、書類のために電話をした私と役場の係りの人との「かけあい漫才」は続く…時間はかかったが、無事パスポートに必要な書類は集まった。 預金通帳は、希望金額にはほど遠く問題が生じたが、「身元引き受け人」の通帳でもよいということになり、叔父に頼んでこれをどうにかクリアーする。
そんなあわただしい日を迎えている時、協会より「エスワイルさん」の歓迎会に出席せよとの通知がくる。
ワイルさんは、横浜ニューグランドホテルの初代料理長として20数年間在日され、その後スイスに帰国。このほど当時の弟子たちがエスワイルさんを日本に招待をしたために来日。この歓迎会に「青年司厨士派遣員」は出席して「アイサツ」をしておきなさいとのことであった。
スイスの「ホテル協会」が、日本の若いコック達を研修・留学させ、スイスにおいての身元を引き受けるということは、このエスワイルさんのお力添えによるものであった。その説明を当日、会場となるホテルのロビーで聞いた時は身体が震えるほど「キンチョウ」したのである。
「マッテテネ、ダイジョウブ。スイスデベンキョウデキマス」
この時のエスワイルさんの言葉は、一生忘れることのできない程、思い出として残っているのである。
外国人と話をしたことのない自分にとって初めての経験は、このワイルさんの言葉が日本語として聞こえなかったことである。
「なぜ言葉がわかるのだろう」と不思議に思い、「あれ、今のは日本語だぜ」と気がついたのは、ワイルさんが自分から離れていってからである。このエスワイルさんとの出会いがあってから「ヨーロッパに行けるんだ」という気持ちが強くなり、スイスに行くんだという目的地がはっきりしてきたのである。
協会からTホテルのK氏を紹介してもらい逢いに行く。K氏は、先日までスイス、フランス、イギリスとまわってきたので「話を聞いてくるように」とのアドバイスであった。
K氏は「そうだなー、スイスは朝9時になっても暗かったな」「それから寒かったぜ」という言葉に、私のノートにはスイスは9時まで暗い、寒さはとくにきびしい」…と、メモ書きをしたのである。
今なら考えられない程、スイスについての知識がなかったのである。本屋に行っても調べるほどのガイドブックがなかったのである。

「出発」
昭和38年9月、友人や家族たちにまざってフィアンセのM子も加わっていた。羽田空港での見送りは「万才、万才」の大合唱でにぎやかである。
出発ロビーには2つの輪ができていて、その真中にいるのは、送られる私ともうひとつの輪の中は、一緒に渡米するPレストランのKさんである。
受け入れ先のスイスのホテル協会は、年間2名づつの研修生を引き受けていたので私とKさんがこの年の派遣司厨士として選ばれたのである。
その出発風景は、今ではとても考えられないことで、当時としては万才見送りがあたり前のセレモニーであった。
「行って来ます。しっかり勉強して帰ります。」、「3年間は帰りません」 ・・・・
二人とも、ふところには150ドルずつのお金を持っているとはいえ、外国の地で病気でもしたら・・・・
大変だ。不安はあるが出発ロビーのこのムードの中では、元気さをフルに見せていなければならない。
M子には「2年間で帰国する」と言ってあったので「3年間は帰りません」というのはKさんの言葉である。帰国したらすぐに結婚するということは、M子の両親には伝えてあるので「2年間、日本を留守にする」ということで承知したM子としては、この時ちょっと不安な気持ちになったと手紙の中で書いてきた。
総勢、50人以上の人たちの見送りを背にうけて税関をぬけ、ロビーに入ると、そこは全く別の世界であった。
あせばむ程、にぎりしめていたチケットを係の人に渡し、飛行機への通路で興奮したKさんが話しかけてくる。 「オレたち、いよいよ日本から出発するんだぜ」、「ガンバロウぜ」とお互いに手をにぎりあった。
同行する1才年上のKさんとは共に励ましあい、時には兄弟であり、友であり、ライバルとなって4年近い外国生活を共にし、時には職場が変わったりしながらも、帰国は二人一緒になって船で横浜に帰ってくるのであるから、強い絆をもつ相手であった。
飛行機が給油するため、アンカレージに到着。機外に出てロビーの中を歩く。見るもの、経験すること、全べてが初めてのことである。アンカレージからコペンハーゲンへ。コペンハーゲンで飛行機を乗り換え、チューリッヒへ。この乗りつぎは頭の中にしっかりと入っていたので割合いとスムーズにいく。
無事チューリッヒ空港に到着。「おかしいなー先輩のSさんたちが迎えに来てくれることになっているんだが・・」とKさんのひとりごとを聞きながら荷物を受けとると、そのまま税関の係官の前に立ち「・・・」声をかけられるが、ほとんどわからないまま「・・・」と無言で答える。
手に持っていた“飛行場で見せなさい”という書類が役に立ち、「よーし、通れ・・・」と言ったか分からないが、パスポートを返されるとそのまま出口へと進む。
普通は、空港から「バス」に乗り、チューリッヒの駅に着くと両替えをする。両替えをしていなかった自分たちにとって、結局バスの料金は「ドル」を見せるだけで「タダ」で乗車したことになる。バスの中でも、運転手との言葉がわからず「もういいよ・・・」、「そうですか、スミマセンネ・・・」というようなわけで忙しい運転手には「困った外人さん」とみられたようだ。
1回の失敗はくり返すまいと早速、両替えをすることになったのである。
ベルン行きの切符を買う。「ベルン、ベルン」と何度も相手に言っても通じないようで、仕方なく書類を見せることになる。「なんだ、ベルンじゃないか」というような言葉をつぶやきながら、「・・・・・・・・・」と再びドイツ語らしき言葉で話しかけてくる。
「え・・・あのー何ですか・・・」多少、英語を勉強していた自分たちとしては、このあたりで会話をしなければと発言をくり返すが相手にはまったく通じていない。係りの人は、白いノートに書いたものを見せている。→・・・と←が1本づつ書いてある。
「そうか、行って帰るのか」、そうじゃないっすよ「ワンウェイ」ですよ・・・少しづつ、「わからなさ」に慣れてきたのか、Kさんも英語を使いはじめた「ワンウェイ」の言葉より→だけを指でさしたので、それがわかったようだ。
どうにか無事、切符を買うことができ、交配のある通路をトランクを押しながらホームに向かう。
「聞いてみよう」とホームに立っている人に聞くことにする。「ベルンに行きますか?この電車は・・・」というような危ないKさんの言葉に「シー」とか言いながらうなづいてくれた。この際、英語で尋ねて何語かわからぬ「ことば」が返ってきても「うなづいてくれたんだから間違いないぜ」と強気になったKさんは急に動きが早くなった。
電車に乗り込んだ二人は、ほっとして「タバコ」をとりだし、お互いに火をつけあって顔を見合わせる。前の席には親子づれの「スペイン人」らしい人たちが座っていたので、早速Kさんの国際交流がはじまる。「お父さん」にタバコをすすめると「・・・」いいですと言いながら手をふっている。「吸わないっすか・・」
Kさんは、あげるのをあきらめながら、子供が指をさす方をみると「禁煙マーク」があった。当時の日本では、禁煙席などなかったから、いきなり国際マナーにひっかかったのである。
それにしても「のんびりした電車だった」いつ発車するとも合図がなしに「スー」と動きだし、止まるとしばらく動かない電車であった。
私たちは「鈍行」に乗ってしまったのである。
昭和38年9月、友人や家族たちにまざってフィアンセのM子も加わっていた。羽田空港での見送りは「万才、万才」の大合唱でにぎやかである。
出発ロビーには2つの輪ができていて、その真中にいるのは、送られる私ともうひとつの輪の中は、一緒に渡米するPレストランのKさんである。
受け入れ先のスイスのホテル協会は、年間2名づつの研修生を引き受けていたので私とKさんがこの年の派遣司厨士として選ばれたのである。
その出発風景は、今ではとても考えられないことで、当時としては万才見送りがあたり前のセレモニーであった。
「行って来ます。しっかり勉強して帰ります。」、「3年間は帰りません」 ・・・・
二人とも、ふところには150ドルずつのお金を持っているとはいえ、外国の地で病気でもしたら・・・・
大変だ。不安はあるが出発ロビーのこのムードの中では、元気さをフルに見せていなければならない。
M子には「2年間で帰国する」と言ってあったので「3年間は帰りません」というのはKさんの言葉である。帰国したらすぐに結婚するということは、M子の両親には伝えてあるので「2年間、日本を留守にする」ということで承知したM子としては、この時ちょっと不安な気持ちになったと手紙の中で書いてきた。
総勢、50人以上の人たちの見送りを背にうけて税関をぬけ、ロビーに入ると、そこは全く別の世界であった。
あせばむ程、にぎりしめていたチケットを係の人に渡し、飛行機への通路で興奮したKさんが話しかけてくる。 「オレたち、いよいよ日本から出発するんだぜ」、「ガンバロウぜ」とお互いに手をにぎりあった。
同行する1才年上のKさんとは共に励ましあい、時には兄弟であり、友であり、ライバルとなって4年近い外国生活を共にし、時には職場が変わったりしながらも、帰国は二人一緒になって船で横浜に帰ってくるのであるから、強い絆をもつ相手であった。
飛行機が給油するため、アンカレージに到着。機外に出てロビーの中を歩く。見るもの、経験すること、全べてが初めてのことである。アンカレージからコペンハーゲンへ。コペンハーゲンで飛行機を乗り換え、チューリッヒへ。この乗りつぎは頭の中にしっかりと入っていたので割合いとスムーズにいく。
無事チューリッヒ空港に到着。「おかしいなー先輩のSさんたちが迎えに来てくれることになっているんだが・・」とKさんのひとりごとを聞きながら荷物を受けとると、そのまま税関の係官の前に立ち「・・・」声をかけられるが、ほとんどわからないまま「・・・」と無言で答える。
手に持っていた“飛行場で見せなさい”という書類が役に立ち、「よーし、通れ・・・」と言ったか分からないが、パスポートを返されるとそのまま出口へと進む。
普通は、空港から「バス」に乗り、チューリッヒの駅に着くと両替えをする。両替えをしていなかった自分たちにとって、結局バスの料金は「ドル」を見せるだけで「タダ」で乗車したことになる。バスの中でも、運転手との言葉がわからず「もういいよ・・・」、「そうですか、スミマセンネ・・・」というようなわけで忙しい運転手には「困った外人さん」とみられたようだ。
1回の失敗はくり返すまいと早速、両替えをすることになったのである。
ベルン行きの切符を買う。「ベルン、ベルン」と何度も相手に言っても通じないようで、仕方なく書類を見せることになる。「なんだ、ベルンじゃないか」というような言葉をつぶやきながら、「・・・・・・・・・」と再びドイツ語らしき言葉で話しかけてくる。
「え・・・あのー何ですか・・・」多少、英語を勉強していた自分たちとしては、このあたりで会話をしなければと発言をくり返すが相手にはまったく通じていない。係りの人は、白いノートに書いたものを見せている。→・・・と←が1本づつ書いてある。
「そうか、行って帰るのか」、そうじゃないっすよ「ワンウェイ」ですよ・・・少しづつ、「わからなさ」に慣れてきたのか、Kさんも英語を使いはじめた「ワンウェイ」の言葉より→だけを指でさしたので、それがわかったようだ。
どうにか無事、切符を買うことができ、交配のある通路をトランクを押しながらホームに向かう。
「聞いてみよう」とホームに立っている人に聞くことにする。「ベルンに行きますか?この電車は・・・」というような危ないKさんの言葉に「シー」とか言いながらうなづいてくれた。この際、英語で尋ねて何語かわからぬ「ことば」が返ってきても「うなづいてくれたんだから間違いないぜ」と強気になったKさんは急に動きが早くなった。
電車に乗り込んだ二人は、ほっとして「タバコ」をとりだし、お互いに火をつけあって顔を見合わせる。前の席には親子づれの「スペイン人」らしい人たちが座っていたので、早速Kさんの国際交流がはじまる。「お父さん」にタバコをすすめると「・・・」いいですと言いながら手をふっている。「吸わないっすか・・」
Kさんは、あげるのをあきらめながら、子供が指をさす方をみると「禁煙マーク」があった。当時の日本では、禁煙席などなかったから、いきなり国際マナーにひっかかったのである。
それにしても「のんびりした電車だった」いつ発車するとも合図がなしに「スー」と動きだし、止まるとしばらく動かない電車であった。
私たちは「鈍行」に乗ってしまったのである。

「先輩たち」
ベルンの駅のホームは、暗く寒々としていた。
旅行者は急行や特急電車に乗って移動するので「鈍行」に乗ってトランクを持っているのは私たちだけである。ドイツ語らしきアナウンスを聞きながら出口へと進む。乗ってきた電車からおりた人が歩いていく方向に一緒についてきたという感じである。
駅の建物を出ると明るい広場が見える。街の中を走る電車が行く手をさえぎるように通りぬけた。ついに、私たちはベルンの街についたのである。日本を出発してから約20時間、今まで経験をしたことがないことをくり返し、ついに目的地ベルンの街に立っているのである。Kさんがメガネをはづしハンカチでふいてからあらためてメガネをかける。 「よし、いこう」2人は歩きだした。もうすぐ「レストランカジノ」に着く…。
頭の中に店の名前が入ってからわずか2週間、あわただしく日本を出発したわけであるが初めて経験する全べての事は、私たち2人を夢心地にさせたのである。
目的地「レストランカジノ」に着いてからの2人は、オーナー夫妻を前にして通じない言葉にもどかしさを感じながら身ぶり手ぶりの会話を続けたが、ついに「あきらめた」らしきオーナーが、部屋に行って「休みなさい」というジェスチャーに「メルシィ ボークー」の言葉で答えて、案内される部屋に入ってどうにか落ちついた気分になる。
スペイン語らしき言葉で案内してくれたチャーミングな黒髪の女性が「トイレ」はここ、「風呂」はここと流暢な言葉で説明してくれる。「オーイエス」「サンキュウ」とKさんは得意の英語がスムーズ?に口からほとばしる。「じゃ、さっきのオーナーの英語はわかったの…」と茶々を入れる、私。「いや、早すぎてわからねえよ」…
たしかオーナーは、始めはフランス語で話しはじめ、通じないとなると流暢な英語で話をしてくれたのだが、二人にはまったく通じないのであった。「エスワイルさん、アキオカさん、ササキさん…がどうしたの…」名前はわかるがそのあと何かを説明してくれているのであったが、二人にはそれが何であるかは分からないのである。
「まあ部屋に行って休みなさい」は「お手あげ」のムードであった。
「とにかくまず風呂に入るか…」Kさんは荷物の中から「タオル」をひっぱりだすと「お先に…」と部屋を出ていった。
私の番になり、Kさんがためておいてくれた風呂につかり、タオルを頭の上にのせると気分は最高。「ついにスイスに着いたぞ」「旅ゆけバァ…」なんて歌が出る。
すっかりリラックスした二人が、ベットの上にのって横になり、「いよいよだなー」というKさんの言葉にうなづいているとき、ドアをノックする音がした。 「ウィー…」なんてのんきな声を出していると急にドアがあいて日本人と外国人がとびこんできた。
「あれ、佐々木さんどうしたの…」とKさん。「どうしたもないもんだ、エアーポートに迎えに行ったのに」佐々木さんが早口に言う。
「いや、探したんですよ…」というKさんに「飛行機がおくれるというので食事をしていたんだ」その間によく君たちはここまで来たもんだとおこられたり感心したりしながらも、佐々木さんとKさんは手をにぎりあって再会を喜んでいたのである。
「ヨカッタネ、シンパイシタネ、ダイジョウブダッタネ」たどたどしい日本語はエスワイルさんだった。エスワイルさんはじめ、佐々木さん、秋岡さん、野中さん、中谷さんの先輩たちがみんなでチューリッヒ空港まで迎えに来てくれたのである。
その人たちを空港に残して、私たち二人はさっさとベルンに来てしまったのである。
私たちを迎えに出たエスワイルさんたちのことをオーナー夫妻は私たちに伝えようとしていたのである。「きつねにつまされたように」二人には通じる訳がなかったわけである。
とりあえず「よかった。よかった」の言葉に囲まれる。「ビールでカンパイを」ということで近くのビアホールにつれていってくれ、大きなジョッキでビールをのませてくれた。
「おいしい」「うれしい」「よろしくおねがいします」と私たちの長い一日は思い出の残る日となったのである。
この日をスタートとしてエスワイルさんとのおつきあいは何かにつれてお世話になり、スイスでの生活を助けてもらうことになるのである。
ベルンの駅のホームは、暗く寒々としていた。
旅行者は急行や特急電車に乗って移動するので「鈍行」に乗ってトランクを持っているのは私たちだけである。ドイツ語らしきアナウンスを聞きながら出口へと進む。乗ってきた電車からおりた人が歩いていく方向に一緒についてきたという感じである。
駅の建物を出ると明るい広場が見える。街の中を走る電車が行く手をさえぎるように通りぬけた。ついに、私たちはベルンの街についたのである。日本を出発してから約20時間、今まで経験をしたことがないことをくり返し、ついに目的地ベルンの街に立っているのである。Kさんがメガネをはづしハンカチでふいてからあらためてメガネをかける。 「よし、いこう」2人は歩きだした。もうすぐ「レストランカジノ」に着く…。
頭の中に店の名前が入ってからわずか2週間、あわただしく日本を出発したわけであるが初めて経験する全べての事は、私たち2人を夢心地にさせたのである。
目的地「レストランカジノ」に着いてからの2人は、オーナー夫妻を前にして通じない言葉にもどかしさを感じながら身ぶり手ぶりの会話を続けたが、ついに「あきらめた」らしきオーナーが、部屋に行って「休みなさい」というジェスチャーに「メルシィ ボークー」の言葉で答えて、案内される部屋に入ってどうにか落ちついた気分になる。
スペイン語らしき言葉で案内してくれたチャーミングな黒髪の女性が「トイレ」はここ、「風呂」はここと流暢な言葉で説明してくれる。「オーイエス」「サンキュウ」とKさんは得意の英語がスムーズ?に口からほとばしる。「じゃ、さっきのオーナーの英語はわかったの…」と茶々を入れる、私。「いや、早すぎてわからねえよ」…
たしかオーナーは、始めはフランス語で話しはじめ、通じないとなると流暢な英語で話をしてくれたのだが、二人にはまったく通じないのであった。「エスワイルさん、アキオカさん、ササキさん…がどうしたの…」名前はわかるがそのあと何かを説明してくれているのであったが、二人にはそれが何であるかは分からないのである。
「まあ部屋に行って休みなさい」は「お手あげ」のムードであった。
「とにかくまず風呂に入るか…」Kさんは荷物の中から「タオル」をひっぱりだすと「お先に…」と部屋を出ていった。
私の番になり、Kさんがためておいてくれた風呂につかり、タオルを頭の上にのせると気分は最高。「ついにスイスに着いたぞ」「旅ゆけバァ…」なんて歌が出る。
すっかりリラックスした二人が、ベットの上にのって横になり、「いよいよだなー」というKさんの言葉にうなづいているとき、ドアをノックする音がした。 「ウィー…」なんてのんきな声を出していると急にドアがあいて日本人と外国人がとびこんできた。
「あれ、佐々木さんどうしたの…」とKさん。「どうしたもないもんだ、エアーポートに迎えに行ったのに」佐々木さんが早口に言う。
「いや、探したんですよ…」というKさんに「飛行機がおくれるというので食事をしていたんだ」その間によく君たちはここまで来たもんだとおこられたり感心したりしながらも、佐々木さんとKさんは手をにぎりあって再会を喜んでいたのである。
「ヨカッタネ、シンパイシタネ、ダイジョウブダッタネ」たどたどしい日本語はエスワイルさんだった。エスワイルさんはじめ、佐々木さん、秋岡さん、野中さん、中谷さんの先輩たちがみんなでチューリッヒ空港まで迎えに来てくれたのである。
その人たちを空港に残して、私たち二人はさっさとベルンに来てしまったのである。
私たちを迎えに出たエスワイルさんたちのことをオーナー夫妻は私たちに伝えようとしていたのである。「きつねにつまされたように」二人には通じる訳がなかったわけである。
とりあえず「よかった。よかった」の言葉に囲まれる。「ビールでカンパイを」ということで近くのビアホールにつれていってくれ、大きなジョッキでビールをのませてくれた。
「おいしい」「うれしい」「よろしくおねがいします」と私たちの長い一日は思い出の残る日となったのである。
この日をスタートとしてエスワイルさんとのおつきあいは何かにつれてお世話になり、スイスでの生活を助けてもらうことになるのである。

「屋根裏」
ガラン、コロン、と聞きなれぬ鐘の音で目がさめる。カジノレストランの裏平から聞こえてくる鐘の音は、左右に動いて聞こえ、大きくなったり小さくなったり、時差ボケの私たちの耳の中にとび込んできた。
自分たちの部屋は屋根裏だが部屋のつくりが大きいので、あまりせまくるしさは感じない。窓をあけて教会をみあげると、いくつものとがった塔がまだ明けきらぬ上空に向かってのびている。路地には、勤めに向かう人たちの足音が石ダタミをふんだ回数だけはっきりと聞こえてくる。
時計をみる。昨夜のうちに時間はあわせてあったのでスイスの時間である。朝の7時はまだ暗く寒そうにコートのエリを立て、急ぎ足で通りぬけるのが外燈のあかりを受けて見える。
昨夜のエスワイルさんの話では、私たち二人はしばらくこの部屋で寝起きして、そのうち慣れたらアパートの方に移るとのことであった。先輩秋岡さんは、アパートから通勤してくるとの説明を受けた。Kさんと二人、いよいよ屋根裏での生活が始まったのである。
となりの部屋にはスペイン人(ウエイター)が2人、そのとなりはアルジェリア人が1人で住んでいる。皆、仮住まいであるということだ。洗面所は、共同になるので「アイサツ」は国際的である。「ボンジュール」「モーニン」「モルゲン」「チャーオー」と言葉が飛び交っている。まだ慣れぬ二人には、話しかけられても「ニコニコ」と笑っているだけだ。
昨日、部屋に案内してくれたチャーミングなスペインの女性に、地下までつれていかれて朝食をとる。
地下の食堂は暗く、必要なところにだけ電気がついているので全体的には見えないが、かなりの広さであることにはちがいない。
案内をしてくれた女性には「マリア」「マリア」とあちこちから声がかけられる。「マリア」はその都度、声の主に向かって可愛い手をあげて「あいさつ」を返している。「ハポネ」「ハポネ」という声もまざっているので「新人の日本人かい」というようなことを聞いているのであろう。
若い女性の案内を受け「カフェオーレー」「茶色がかったパン」と「ハードなチーズ」「ジャム」をもらって食卓に向かう。
テーブルの場所は決まっているようで「あんたたちはここよ」と流調なスペイン語で教えてもらう。もちろん「そう言っているんだろうなー」と判断しての私たちの行動である。
「マリア」のお世話はこの時だけで、たぶんオーナーから言いつけられての一日だけの仕事であったようだ。他にも雑用係らしき年配のスペインやイタリアの「おばさん達」もいたが、初日には若い「マリア」を私たちの世話係にしてくれたのも、親日家であるオーナーの心配りであったのかも知れない。
それにしても、味気のない朝食である。スイスに来たのだから無理なことかもしれないが、「ごはん」「みそしる」「漬け物」「納豆」が大好きな自分にとっては、初日にして「もうまいった」「まいった」の「つぶやき」である。しかし、Kさんは当然なことと、パンをコーヒーにひたして食べている。聞けば、Kさんの日本での朝食は「いつもこれだぜ…」という。もうここで一本やられた感じだが、負けてもなんでもよい。やはり、日本人は「ごはんだぜ」と、ひとりごちで、苦いコーヒーをのんだのである。
ガラン、コロン、と聞きなれぬ鐘の音で目がさめる。カジノレストランの裏平から聞こえてくる鐘の音は、左右に動いて聞こえ、大きくなったり小さくなったり、時差ボケの私たちの耳の中にとび込んできた。
自分たちの部屋は屋根裏だが部屋のつくりが大きいので、あまりせまくるしさは感じない。窓をあけて教会をみあげると、いくつものとがった塔がまだ明けきらぬ上空に向かってのびている。路地には、勤めに向かう人たちの足音が石ダタミをふんだ回数だけはっきりと聞こえてくる。
時計をみる。昨夜のうちに時間はあわせてあったのでスイスの時間である。朝の7時はまだ暗く寒そうにコートのエリを立て、急ぎ足で通りぬけるのが外燈のあかりを受けて見える。
昨夜のエスワイルさんの話では、私たち二人はしばらくこの部屋で寝起きして、そのうち慣れたらアパートの方に移るとのことであった。先輩秋岡さんは、アパートから通勤してくるとの説明を受けた。Kさんと二人、いよいよ屋根裏での生活が始まったのである。
となりの部屋にはスペイン人(ウエイター)が2人、そのとなりはアルジェリア人が1人で住んでいる。皆、仮住まいであるということだ。洗面所は、共同になるので「アイサツ」は国際的である。「ボンジュール」「モーニン」「モルゲン」「チャーオー」と言葉が飛び交っている。まだ慣れぬ二人には、話しかけられても「ニコニコ」と笑っているだけだ。
昨日、部屋に案内してくれたチャーミングなスペインの女性に、地下までつれていかれて朝食をとる。
地下の食堂は暗く、必要なところにだけ電気がついているので全体的には見えないが、かなりの広さであることにはちがいない。
案内をしてくれた女性には「マリア」「マリア」とあちこちから声がかけられる。「マリア」はその都度、声の主に向かって可愛い手をあげて「あいさつ」を返している。「ハポネ」「ハポネ」という声もまざっているので「新人の日本人かい」というようなことを聞いているのであろう。
若い女性の案内を受け「カフェオーレー」「茶色がかったパン」と「ハードなチーズ」「ジャム」をもらって食卓に向かう。
テーブルの場所は決まっているようで「あんたたちはここよ」と流調なスペイン語で教えてもらう。もちろん「そう言っているんだろうなー」と判断しての私たちの行動である。
「マリア」のお世話はこの時だけで、たぶんオーナーから言いつけられての一日だけの仕事であったようだ。他にも雑用係らしき年配のスペインやイタリアの「おばさん達」もいたが、初日には若い「マリア」を私たちの世話係にしてくれたのも、親日家であるオーナーの心配りであったのかも知れない。
それにしても、味気のない朝食である。スイスに来たのだから無理なことかもしれないが、「ごはん」「みそしる」「漬け物」「納豆」が大好きな自分にとっては、初日にして「もうまいった」「まいった」の「つぶやき」である。しかし、Kさんは当然なことと、パンをコーヒーにひたして食べている。聞けば、Kさんの日本での朝食は「いつもこれだぜ…」という。もうここで一本やられた感じだが、負けてもなんでもよい。やはり、日本人は「ごはんだぜ」と、ひとりごちで、苦いコーヒーをのんだのである。

「ベルンの街」
今日は、先輩の秋岡さんが私たち二人を連れて街を案内してくれるという。
住所登録や、その他の書類を作成して届けるということで、こんな難しいことをやってくれる秋岡さんにぴったしとついて、役場(事務所)の入口をくぐったのである。
秋岡さんのアドバイスは「なるほどね」…と思うばかりで、自分たちの何も知らなさが度がすぎるほどで、恥ずかしいかぎりだ。
「風呂」のお湯はシャワーだけに使用すること。使いすぎは、あとの人が「水だけ」になってしまうのでいけない…という。あの「たっぷり」と入れて湯舟として使用した昨夜の自分たちに早速クレームがついたようだ。「もう…旅行けばァ~」は、ダメダ…となると、ちょっと悲しくなる。
スイスでの生活が約6ヵ月という秋岡さんは、フランス語が「ペラペラ」である。とくに「R」の使い方がうまく、たえずその語を口に出して(いや、ノドを通して)練習をしている。あの「ウガイ」をするような「ゲーゲー」に近い音である。
日本で、自分がやっていた勉強は何だったのだろう。スイスにたどりつき、話が通じなかったのは「すなわち」言葉ではなく、書いてある文字語だったのであろう。
残念ながらいちから出直しだ。
それにしても秋岡さんの言葉に対しての執念はすごい。今までの私のまわりにいた人たちとは比べものにならない。暇さえあれば「フランス語」を発音している。とくに前記した「R」の入る言葉は日本人には難しく、山本先生の話でも、これが発音できれば言葉は大変に発達していくということを聞いている。
洗面所の「カガミ」の前で「R」エール、ゲール、ゲロゲロ、「クゲヨン」…クレヨンをこの発音でなければ通じない。「ガジオ」…ラジオだ。「ロギャルデ」…ルガルデ…見なさい。「メルシィ」…じゃないんだ、「メゲルシィ」…もうノドが痛くなってくる。アン、ドゥ、トロア…じゃない「トガァ」…なのだ。
日本と違って目標とする先輩、秋岡さんはかなりの言葉が話せるのに、さらなる努力をしているのである。
日本の協会からの青年欧州派遣司厨士は、年に2名ではなく、東京オリンピックが近づいてきているせいか、私たちも含めて4名に増えているのも現地に来てはじめてわかったのである。秋岡さんたちの後に、野中さんと中谷さんが来られていたが、この二人のフランス語は「まあまあ」…の出来ばえであった。
野中さん、中谷さんとはその後すっかり友達になり、語学の学校に行ったり、共同で「愛車」フィヤット500…を購入して、別れるまでの10ヵ月間、遊んだり旅行をしたりしたのである。この二人との話をするとあまりにも面白い話がたくさんあるので、その楽しい話をする前に話をもとに戻しておこう。
スイス、ベルンの街は有名な時計塔(チークロック)が街の中央にあり、街を囲むようにしてアアレ川が流れている。その水の流れは早く、アルプスからの雪どけ水は冷たいが澄んでいてきれいな川である。川辺から街には急な坂道をのぼらなければならないが、石ダタミはそんな道路につながっている。
秋岡さんに街を案内されながら、「この川の魚「トリュットオーブルー」が有名なんだよ」と、店のスペシャルメニューに入っているという料理の名前も教えてくれた。
飛行場まで迎えに来てくれた佐々木さんは、現在、チューリッヒのホテルで働いているということで、昨夜のうちに電車で帰っていかれたという。
佐々木さんは、もう2年目ということであったから、河崎さん(Kさんのこと)とは、ほんとうになつかしそうに話をしていたが、あとのことを全て秋岡さんに頼むということで、心細い私たちにとっては、ありがたい先輩たちの約束であった。
佐々木さんは「ドイツ語」地区のチューリッヒなので、ほとんど会話は「ドイツ語」でするため、エスワイルさんとの会話はなぜか「ツバ」がとんでいるような発音であった。
スイス、ベルンに到着、そして過ごしたこの2日間は、我が人生にとってすばらしい日々となったのである。これも、エスワイルさんはじめ、先輩たちのおかげである。
今日は、先輩の秋岡さんが私たち二人を連れて街を案内してくれるという。
住所登録や、その他の書類を作成して届けるということで、こんな難しいことをやってくれる秋岡さんにぴったしとついて、役場(事務所)の入口をくぐったのである。
秋岡さんのアドバイスは「なるほどね」…と思うばかりで、自分たちの何も知らなさが度がすぎるほどで、恥ずかしいかぎりだ。
「風呂」のお湯はシャワーだけに使用すること。使いすぎは、あとの人が「水だけ」になってしまうのでいけない…という。あの「たっぷり」と入れて湯舟として使用した昨夜の自分たちに早速クレームがついたようだ。「もう…旅行けばァ~」は、ダメダ…となると、ちょっと悲しくなる。
スイスでの生活が約6ヵ月という秋岡さんは、フランス語が「ペラペラ」である。とくに「R」の使い方がうまく、たえずその語を口に出して(いや、ノドを通して)練習をしている。あの「ウガイ」をするような「ゲーゲー」に近い音である。
日本で、自分がやっていた勉強は何だったのだろう。スイスにたどりつき、話が通じなかったのは「すなわち」言葉ではなく、書いてある文字語だったのであろう。
残念ながらいちから出直しだ。
それにしても秋岡さんの言葉に対しての執念はすごい。今までの私のまわりにいた人たちとは比べものにならない。暇さえあれば「フランス語」を発音している。とくに前記した「R」の入る言葉は日本人には難しく、山本先生の話でも、これが発音できれば言葉は大変に発達していくということを聞いている。
洗面所の「カガミ」の前で「R」エール、ゲール、ゲロゲロ、「クゲヨン」…クレヨンをこの発音でなければ通じない。「ガジオ」…ラジオだ。「ロギャルデ」…ルガルデ…見なさい。「メルシィ」…じゃないんだ、「メゲルシィ」…もうノドが痛くなってくる。アン、ドゥ、トロア…じゃない「トガァ」…なのだ。
日本と違って目標とする先輩、秋岡さんはかなりの言葉が話せるのに、さらなる努力をしているのである。
日本の協会からの青年欧州派遣司厨士は、年に2名ではなく、東京オリンピックが近づいてきているせいか、私たちも含めて4名に増えているのも現地に来てはじめてわかったのである。秋岡さんたちの後に、野中さんと中谷さんが来られていたが、この二人のフランス語は「まあまあ」…の出来ばえであった。
野中さん、中谷さんとはその後すっかり友達になり、語学の学校に行ったり、共同で「愛車」フィヤット500…を購入して、別れるまでの10ヵ月間、遊んだり旅行をしたりしたのである。この二人との話をするとあまりにも面白い話がたくさんあるので、その楽しい話をする前に話をもとに戻しておこう。
スイス、ベルンの街は有名な時計塔(チークロック)が街の中央にあり、街を囲むようにしてアアレ川が流れている。その水の流れは早く、アルプスからの雪どけ水は冷たいが澄んでいてきれいな川である。川辺から街には急な坂道をのぼらなければならないが、石ダタミはそんな道路につながっている。
秋岡さんに街を案内されながら、「この川の魚「トリュットオーブルー」が有名なんだよ」と、店のスペシャルメニューに入っているという料理の名前も教えてくれた。
飛行場まで迎えに来てくれた佐々木さんは、現在、チューリッヒのホテルで働いているということで、昨夜のうちに電車で帰っていかれたという。
佐々木さんは、もう2年目ということであったから、河崎さん(Kさんのこと)とは、ほんとうになつかしそうに話をしていたが、あとのことを全て秋岡さんに頼むということで、心細い私たちにとっては、ありがたい先輩たちの約束であった。
佐々木さんは「ドイツ語」地区のチューリッヒなので、ほとんど会話は「ドイツ語」でするため、エスワイルさんとの会話はなぜか「ツバ」がとんでいるような発音であった。
スイス、ベルンに到着、そして過ごしたこの2日間は、我が人生にとってすばらしい日々となったのである。これも、エスワイルさんはじめ、先輩たちのおかげである。

「仕事初め」
いよいよ仕事を始める。レストラン・カジノは、市内の中心からは歩いて10分位のところにあり、アアレ川を真下に見える所に残っている。現在は、カジノ(ルーレットやトランプなどのかけるところ)は営業はしていない。大きな建物の中には、レストランやバー、劇場などがあり、人の出入りが多くにぎわっている。私たちはこのレストランの調理場で外国での修業が始まったのである。
レストランの調理場は、地下にガルマンジェ、エコノマ、パティシエリ、社員食堂があり、レストランの調理場は1Fにある。一部のソースやスープなどは地下でも仕込む場所がある。ワイン倉庫は別な建物の地下にあり、その入口までトラックが横づけする。
調理場のオーブンは大きく、電気による熱源なので「ガス」による調理をしていた自分にとっては少しばかり気になるところである。オーブンを真中にしてソウシェ係とアントレ係とにわかれている。秋岡さんはソウシェで河崎さんは同じ部所に入り、私はアントレ係である。
それぞれの部所にシェフがいてその下にコミがいる。コミの下が見習いになる「アポランティ」がいる。日本人3人の資格は、コミ、ドゥキュジュエであるから、いきりなり調理場の中心であるオーブン前に立たしてもらえるのも、エスワイルさんの「おかげ」である。
グランシェフのシュミッツさんは細身で背が高く、目がするどくめったに笑わない。約30人のコックたちのトップの地位にある貫禄のため、怖い感じがする。
ソウシェのシェフを兼ねているスーシェフのルーフさんは、その名前の通り動物のように動きまわる人だ。たえず身体が左右にゆれている。その揺れの中から次の動作に移るため、動きが早い。地下から一階への階段は、ほとんど、上がってくるというより飛び上がってくるようなスピードがある。
レストランの「オーダー」が入ると、グランシェフがその注文を読み上げる。この「オーダー」を聞くと、いっせいにコック達が動きはじめる。グランシェフの「オーダー」の読み方は、まず初めがドイツ語、次にゆっくりと「フランス語」で言ってくれるが、初日の私と河崎さんの動きはまことに頼りないのだ。そばにいる秋岡さんが「日本語」で訳をしてくれるが、「オーダー」が混みあってくると、もう二人はパニックになってくる。頼りの秋岡さんまでもが離れていってしまうと、さらに「ウロウロオロオロ」なのだ。
グランシェフの声を少しでも聞こうとすると、ドイツ語なまりの「フランス語」がめずらしい発音であり、今までに聞いたことがない言葉に聞こえてきてしまう。私の部所のシェフは、ドイツ人のヘルベートさん。おっとりしていて動きは、スーシェフのルーフさんとは正反対。そっと耳元で話しかけてくれるが、わからなくても「ヤーヤー」と言って答える。まわりのコックや見習いたちが動くのを見て動くという動物的な勘を働かせての仕事が始まったのである。
ドイツ語はやたら語尾がノドにひっかかるようにして聞こえるので、エコノマに「カトフンストック」をとりに行ってくるようにとのシェフヘルベートの言葉に、「それなんですか?」という顔をしたら「カゴ」の中に入っている「じゃがいも」を手に持って「これだ」と言うように目で合図をしてくれている。そうか「カトーフンストック」は、じゃがいもか、フーン…「カトチャンだ」これからは「カトチャン」で覚えておこうと、ひとりごちながら、エコノマへとんでいく。
エコノマの係は、ちょっと年配だが銀髪の美しい女性が「イス」に座っていた。あの「カトチャン」じゃない「カトーフンストック」を、「ツワイキログラム、ビッテ」とさっそく習いたての単語を並べてみた。「△×△×△×」なにか話しているが分からない。目と目をみつめあって、お互いに「困ったもんだ」…とその目が話しているが、どうすることもできない。銀髪のアネゴは机の上の電話をとり、たぶん「アントレ」の職場に聞いてくれたのであろう。「ヤーヤー、フフン、ヤボル」という会話のあと電話を置くと、エコノマの次の冷蔵庫の中から「じゃがいも」をとりだしてきて「カゴ」に入れて「さあ、どうぞ」と手渡してくれた。サインをノートにして「ダンケシャン」「ビテシャン」で美人に見送られてエコノマを後にする。
「じゃがいもを2kgくださいよ」という言葉が通じなかったくやしさに、ちょっとしおれた心に「ハッパ」をかけて職場へともどっていった。
後日わかったことであるが「じゃがいも」の種類があって、それを彼女が「確かめた」のであった。23才の日本人男子、たかが「じゃがいも」のお遣いに初めからつまづいているのであった。
いよいよ仕事を始める。レストラン・カジノは、市内の中心からは歩いて10分位のところにあり、アアレ川を真下に見える所に残っている。現在は、カジノ(ルーレットやトランプなどのかけるところ)は営業はしていない。大きな建物の中には、レストランやバー、劇場などがあり、人の出入りが多くにぎわっている。私たちはこのレストランの調理場で外国での修業が始まったのである。
レストランの調理場は、地下にガルマンジェ、エコノマ、パティシエリ、社員食堂があり、レストランの調理場は1Fにある。一部のソースやスープなどは地下でも仕込む場所がある。ワイン倉庫は別な建物の地下にあり、その入口までトラックが横づけする。
調理場のオーブンは大きく、電気による熱源なので「ガス」による調理をしていた自分にとっては少しばかり気になるところである。オーブンを真中にしてソウシェ係とアントレ係とにわかれている。秋岡さんはソウシェで河崎さんは同じ部所に入り、私はアントレ係である。
それぞれの部所にシェフがいてその下にコミがいる。コミの下が見習いになる「アポランティ」がいる。日本人3人の資格は、コミ、ドゥキュジュエであるから、いきりなり調理場の中心であるオーブン前に立たしてもらえるのも、エスワイルさんの「おかげ」である。
グランシェフのシュミッツさんは細身で背が高く、目がするどくめったに笑わない。約30人のコックたちのトップの地位にある貫禄のため、怖い感じがする。
ソウシェのシェフを兼ねているスーシェフのルーフさんは、その名前の通り動物のように動きまわる人だ。たえず身体が左右にゆれている。その揺れの中から次の動作に移るため、動きが早い。地下から一階への階段は、ほとんど、上がってくるというより飛び上がってくるようなスピードがある。
レストランの「オーダー」が入ると、グランシェフがその注文を読み上げる。この「オーダー」を聞くと、いっせいにコック達が動きはじめる。グランシェフの「オーダー」の読み方は、まず初めがドイツ語、次にゆっくりと「フランス語」で言ってくれるが、初日の私と河崎さんの動きはまことに頼りないのだ。そばにいる秋岡さんが「日本語」で訳をしてくれるが、「オーダー」が混みあってくると、もう二人はパニックになってくる。頼りの秋岡さんまでもが離れていってしまうと、さらに「ウロウロオロオロ」なのだ。
グランシェフの声を少しでも聞こうとすると、ドイツ語なまりの「フランス語」がめずらしい発音であり、今までに聞いたことがない言葉に聞こえてきてしまう。私の部所のシェフは、ドイツ人のヘルベートさん。おっとりしていて動きは、スーシェフのルーフさんとは正反対。そっと耳元で話しかけてくれるが、わからなくても「ヤーヤー」と言って答える。まわりのコックや見習いたちが動くのを見て動くという動物的な勘を働かせての仕事が始まったのである。
ドイツ語はやたら語尾がノドにひっかかるようにして聞こえるので、エコノマに「カトフンストック」をとりに行ってくるようにとのシェフヘルベートの言葉に、「それなんですか?」という顔をしたら「カゴ」の中に入っている「じゃがいも」を手に持って「これだ」と言うように目で合図をしてくれている。そうか「カトーフンストック」は、じゃがいもか、フーン…「カトチャンだ」これからは「カトチャン」で覚えておこうと、ひとりごちながら、エコノマへとんでいく。
エコノマの係は、ちょっと年配だが銀髪の美しい女性が「イス」に座っていた。あの「カトチャン」じゃない「カトーフンストック」を、「ツワイキログラム、ビッテ」とさっそく習いたての単語を並べてみた。「△×△×△×」なにか話しているが分からない。目と目をみつめあって、お互いに「困ったもんだ」…とその目が話しているが、どうすることもできない。銀髪のアネゴは机の上の電話をとり、たぶん「アントレ」の職場に聞いてくれたのであろう。「ヤーヤー、フフン、ヤボル」という会話のあと電話を置くと、エコノマの次の冷蔵庫の中から「じゃがいも」をとりだしてきて「カゴ」に入れて「さあ、どうぞ」と手渡してくれた。サインをノートにして「ダンケシャン」「ビテシャン」で美人に見送られてエコノマを後にする。
「じゃがいもを2kgくださいよ」という言葉が通じなかったくやしさに、ちょっとしおれた心に「ハッパ」をかけて職場へともどっていった。
後日わかったことであるが「じゃがいも」の種類があって、それを彼女が「確かめた」のであった。23才の日本人男子、たかが「じゃがいも」のお遣いに初めからつまづいているのであった。

「祈り」
調理場の中でも、それぞれの仕事内容によってわかれていて「ガルマンジュ」というところで仕込みされたものが「ソウシェ」に来て、焼いたり、揚げたり蒸したりして、料理に仕上げられる。料理にはつけ合わせが添えられるが、そのつけ合わせや、スープをつくるのが「アントレメチェ」である。
「レストラン」のオーダーがグランシェフによって読みあげられると、それぞれの受け持ちの仕事が働きはじめるのである。 音楽で言うなら「指揮者」である。グランシェフの一声が聞こえなかったらその音楽、すなわち「曲」にはついていけないのであるからミュージシャンとしては失格になる。職場において言葉が通 じないということは大変なことで、通じない職場での「働き」は相当にイメージの悪いものであったろう。 新人の私たちは、一日にしてノックアウトをくらってしまった感じである。 言葉が通 じないというくやしさ、むなしさに自分達の部屋に戻った二人は無口になっていた。
午後2時から夕方の5時までの3時間が休憩時間になる。 職場に5時までに入ると、食堂に行き食事をする。疲れているので食欲がなかったが、マカロニにミートソースをかけた献立は麺の大好きな自分には満足の味であった。パンとチーズは小さな切り身をもらい、「赤ワイン」はグラスに1/3だけ水がわりとしてもらった。ディナータイムの職場は昼のランチタイムより忙しかったが「オロオロ、ウロウロ」にも慣れてきたのか周りを眺める余裕もでてきた。
グランシェフのシュミットさんの静かな動きに対し、二番シェフ(スーシェフ)のルーフさんの仕事ぶりはオーダーが多くなればなる程加熱され「どなり声」も大きくなる。 「コッパラターミ」「カッカラーリ」「サンロー」「シハイセ」「ツァカ、ツァカ」「アレ、アレ」と次から次へと短い単語がルーフさんの口からほとばしる。秋岡先輩は「にやにや」しながら、「そーら始まったぜ」新人の私と河崎さんが、その言葉の訳を聞こうとすると、片目をつぶってみせ、「あんまり気にしない方がよいよ。あいつは病気なんだよ。忙しいと頭に血がのぼるんだよ。」 気がつくと、ルーフさんのまわりにはコックが近づかない。アポランティ(見習い)が一人捕まって、さかんにどなりつけられている。
秋岡さんの話によると、クリスチャンのルーフさんは、教会に行く日曜日は休日。この日は全べてのコックにとってリラックスできる日であるということ、また教会でのお祈りのせいか、月曜日から水曜日位までは、静かなルーフさんであるという。 祈りから遠ざかった金曜日、土曜日は荒れくるってしまう。とのことであった。
ガラン、コロンと鳴る教会の鐘は、それぞれの人の心の中でその受け止め方で「すばらしい変化を」するものだとあらためて「祈ること」の大切さを学んだのである。
仕事が終わり河崎さんと二人でビァホールに行く、疲れているが今の二人には大ジョッキでのこの一杯がなにより「くすり」となるのである。
調理場の中でも、それぞれの仕事内容によってわかれていて「ガルマンジュ」というところで仕込みされたものが「ソウシェ」に来て、焼いたり、揚げたり蒸したりして、料理に仕上げられる。料理にはつけ合わせが添えられるが、そのつけ合わせや、スープをつくるのが「アントレメチェ」である。
「レストラン」のオーダーがグランシェフによって読みあげられると、それぞれの受け持ちの仕事が働きはじめるのである。 音楽で言うなら「指揮者」である。グランシェフの一声が聞こえなかったらその音楽、すなわち「曲」にはついていけないのであるからミュージシャンとしては失格になる。職場において言葉が通 じないということは大変なことで、通じない職場での「働き」は相当にイメージの悪いものであったろう。 新人の私たちは、一日にしてノックアウトをくらってしまった感じである。 言葉が通 じないというくやしさ、むなしさに自分達の部屋に戻った二人は無口になっていた。
午後2時から夕方の5時までの3時間が休憩時間になる。 職場に5時までに入ると、食堂に行き食事をする。疲れているので食欲がなかったが、マカロニにミートソースをかけた献立は麺の大好きな自分には満足の味であった。パンとチーズは小さな切り身をもらい、「赤ワイン」はグラスに1/3だけ水がわりとしてもらった。ディナータイムの職場は昼のランチタイムより忙しかったが「オロオロ、ウロウロ」にも慣れてきたのか周りを眺める余裕もでてきた。
グランシェフのシュミットさんの静かな動きに対し、二番シェフ(スーシェフ)のルーフさんの仕事ぶりはオーダーが多くなればなる程加熱され「どなり声」も大きくなる。 「コッパラターミ」「カッカラーリ」「サンロー」「シハイセ」「ツァカ、ツァカ」「アレ、アレ」と次から次へと短い単語がルーフさんの口からほとばしる。秋岡先輩は「にやにや」しながら、「そーら始まったぜ」新人の私と河崎さんが、その言葉の訳を聞こうとすると、片目をつぶってみせ、「あんまり気にしない方がよいよ。あいつは病気なんだよ。忙しいと頭に血がのぼるんだよ。」 気がつくと、ルーフさんのまわりにはコックが近づかない。アポランティ(見習い)が一人捕まって、さかんにどなりつけられている。
秋岡さんの話によると、クリスチャンのルーフさんは、教会に行く日曜日は休日。この日は全べてのコックにとってリラックスできる日であるということ、また教会でのお祈りのせいか、月曜日から水曜日位までは、静かなルーフさんであるという。 祈りから遠ざかった金曜日、土曜日は荒れくるってしまう。とのことであった。
ガラン、コロンと鳴る教会の鐘は、それぞれの人の心の中でその受け止め方で「すばらしい変化を」するものだとあらためて「祈ること」の大切さを学んだのである。
仕事が終わり河崎さんと二人でビァホールに行く、疲れているが今の二人には大ジョッキでのこの一杯がなにより「くすり」となるのである。

「いらだち」
仕事中に「あおられる」「ツアカ、ツアカ」や「ア・レ・ビット」「マ・ファ・シネル」「アンワイエ」は、右手をぐるぐるまわすので、そのジェスチャーで「早くしろ」「ぐずぐずするな」ということであることは分かるが、「へーラン・ツアカ・コッパラターミ」や「サンロー」「シハイセ」などの発音のときは、ちょっと様子がちがう。
食事のとき一緒になった秋岡先輩にその点を聞いてみると、「はっきりと訳さない方がよいよ」「日本語に訳すると、とても平常心ではいられなくなるぜ」。そう説明されると、なおさら聞きたくなる。
ようするに「バカヤロウ」に近い言葉らしいが「オマエワバカナノダ」「ウスノロナノダ」「ヘマオスルナヨ」という具合に訳をしていれば腹が立たないんじゃないかなーといかにも平和主義をモットーとする先輩の説明であった。
「気にするなよ」という割には、秋岡先輩の「バカヤロウ」という日本語が時々聞こえたのは「空耳」であっただろうか…
仕事が慣れるにつれ、河崎さんも「コノヤロウ」というひとりごちが多くなってきた。日本語が聞こえると、3人は顔を見合わせて「まあまあ」という、なぐさめのまなざしを送るのである。言葉がわかればこの気分を救われるだろうが、自分の意思が伝わらないといういらだちが日毎に多くなってくるのだった。
秋岡先輩すらこの「なやみ」をぶつけるところがなく、あえて「フランス語」を「口から言葉として」飛び出させて「ウップン」をはらしているのであろう。秋岡さんは酒をのまないので、私と河崎さんの二人は、もっぱら「ビアホール」に行って「うさ晴らし」をするのだった。「ビアホール」のウエイターとも顔なじみになり、私たちが座るとだまっていても「大ジョッキ」が運ばれてくる。「グロスト」(カンパイ)と言って片目をつむってくれる。その仕草にどこか愛嬌がある。こんな「もてなし方」をされると、自然と仕事中のあの「ダメヨ、コノヤロー、シッカリセーヨ」の言葉も忘れてくるのであった。酔うほどに、のむほどに、スイスにやってきたのだ…という自覚がわいてくるのだった。
私たちは日本で8年間調理の仕事をしているわけであるから、その仕事の内容がわかれば、あとはほとんどスイスの「コミィ」と同じように働くことができる。料理によっては、それ以上の料理をつくることができる。この中途半端なところがいけないのかも知れないが、自分の気持ちを落ちつかせるには、河崎さんという良きパートナーがいてくれるから救われるのであった。一人がおこれば「まあまあ」といってなぐさめてくれる相棒がいることは心強いことであった。
スイスに来てから10日もしないうちに、私たちには二人の仲間が加わった。
カジノレストランの近くにあるベルビュパレスホテルに来ている野中さんと中西さんだ。私たちより3ヵ月早くスイスに来ていた。この二人は、まったく異なる性格の人が選ばれてきたといえるぐらい行動も考えもちがっていた。この「4人」が一緒になってのスイスの生活は楽しくもありトラブルもあったりして、ますますエキサイティングしていくのであった。
仕事中に「あおられる」「ツアカ、ツアカ」や「ア・レ・ビット」「マ・ファ・シネル」「アンワイエ」は、右手をぐるぐるまわすので、そのジェスチャーで「早くしろ」「ぐずぐずするな」ということであることは分かるが、「へーラン・ツアカ・コッパラターミ」や「サンロー」「シハイセ」などの発音のときは、ちょっと様子がちがう。
食事のとき一緒になった秋岡先輩にその点を聞いてみると、「はっきりと訳さない方がよいよ」「日本語に訳すると、とても平常心ではいられなくなるぜ」。そう説明されると、なおさら聞きたくなる。
ようするに「バカヤロウ」に近い言葉らしいが「オマエワバカナノダ」「ウスノロナノダ」「ヘマオスルナヨ」という具合に訳をしていれば腹が立たないんじゃないかなーといかにも平和主義をモットーとする先輩の説明であった。
「気にするなよ」という割には、秋岡先輩の「バカヤロウ」という日本語が時々聞こえたのは「空耳」であっただろうか…
仕事が慣れるにつれ、河崎さんも「コノヤロウ」というひとりごちが多くなってきた。日本語が聞こえると、3人は顔を見合わせて「まあまあ」という、なぐさめのまなざしを送るのである。言葉がわかればこの気分を救われるだろうが、自分の意思が伝わらないといういらだちが日毎に多くなってくるのだった。
秋岡先輩すらこの「なやみ」をぶつけるところがなく、あえて「フランス語」を「口から言葉として」飛び出させて「ウップン」をはらしているのであろう。秋岡さんは酒をのまないので、私と河崎さんの二人は、もっぱら「ビアホール」に行って「うさ晴らし」をするのだった。「ビアホール」のウエイターとも顔なじみになり、私たちが座るとだまっていても「大ジョッキ」が運ばれてくる。「グロスト」(カンパイ)と言って片目をつむってくれる。その仕草にどこか愛嬌がある。こんな「もてなし方」をされると、自然と仕事中のあの「ダメヨ、コノヤロー、シッカリセーヨ」の言葉も忘れてくるのであった。酔うほどに、のむほどに、スイスにやってきたのだ…という自覚がわいてくるのだった。
私たちは日本で8年間調理の仕事をしているわけであるから、その仕事の内容がわかれば、あとはほとんどスイスの「コミィ」と同じように働くことができる。料理によっては、それ以上の料理をつくることができる。この中途半端なところがいけないのかも知れないが、自分の気持ちを落ちつかせるには、河崎さんという良きパートナーがいてくれるから救われるのであった。一人がおこれば「まあまあ」といってなぐさめてくれる相棒がいることは心強いことであった。
スイスに来てから10日もしないうちに、私たちには二人の仲間が加わった。
カジノレストランの近くにあるベルビュパレスホテルに来ている野中さんと中西さんだ。私たちより3ヵ月早くスイスに来ていた。この二人は、まったく異なる性格の人が選ばれてきたといえるぐらい行動も考えもちがっていた。この「4人」が一緒になってのスイスの生活は楽しくもありトラブルもあったりして、ますますエキサイティングしていくのであった。

「ことば」
職場で慣れるにしたがって、たえず別な問題が持ち上がった。誰が教えたのか、日本語で「バカヤロウ」「こんちきしょう」をスペイン人の洗い場のジョゼフがはっきりとした発音で話しかけてくる。本人はその意味は知らないのだが、私たち日本人をみると「バカヤロウ」と言ってくるのである。
はじめのうちは笑っていたが、こちらもそういつも調子が良いばかりではなく、仕事のトラブルで「ムカ」ついているときに‥タイミング悪く「バカヤロウ」と言われたものだから「つい」「コノヤロウ」「テメェ、フザケンジャーナイヨ」とジョゼフの胸ぐらをつかまえてしまった。
「殴れば」国外追放になる‥ということは秋岡先輩から何回も注意されていたので、持ち上げた「コブシ」のおきばに困り、「ぐるぐる」とまわしていた。
「おい、空手(からて)を知らねーか、お前のノーテンをぶち割ってやろーか?」「カラテ」という言葉がわかったようで「ムッシュウ、イマイ」「ヤメテヨ」「カラテ、ノーノー」ときた。ジョゼフ自身、なぜ胸ぐらをつかまえられたのかも分からず、その上「カラテ」のポーズをされたものだから慌てている。「二度と言うんじゃないよ」「ワカッタナー」と、その時はこれで済んだが、別な日に河崎さんが同じようにジョゼフをつかまえたときは、私も加勢して二人でジョゼフを大きな「スープ」をつくる「電気ガマ」の中に放り込んでやった。もちろん中は空であったし、使用中の「ナベ」ではないので心配はなかったが、ジョゼフにしてみれば、覚えた日本語を親しみをこめて言ったのにその都度日本人に「おそわれる」ので、さすがに「日本人はヤバンだ」という結論がでてからは私たちに近づかなくなっていった。
スイスに来て、一番おどろいたのは人種差別が非常にあるということだ。出稼ぎに来ているイタリア、スペイン人のコックはほとんどいない、全て下働きの仕事をする者だけがスイスで働けるようで、したがって彼等の地位は低く、掃除や洗い場、調理をする手伝いのジャガイモの皮むきや玉ねぎなどの下処理などであった。汚れているところがあると、スイス人のコック、見習いまでがやり直しを命じていたりする。
つい自分のクセでまわりを「そうじ」したりすると、「イマイ、ノーノー」といって仲間のコックたちがやらないように言ってくる。日本人的に考えればこの差別がなんとも気になるところだが、彼等の「仕事」をとってしまうということから考えれば、当然やらない方がよいのである。
職場では、小さな争いが頻繁におきる。しかし「殴り合い」はぜったいにしない。「ののしりあう」ということで言葉が入りみだれての「ケンカ」である。このときの言葉は、ここではちょっと書けないような下品な単語をならべたてて「怒鳴り合う」のである。おかげでその種の言葉すぐに覚えてしまった。
ある時、洗い場のジョゼフが男性の一物を日本語で教えろというので「マツタケだ」と答えると一度で覚えてしまった。ジョゼフは「バカなのか」河崎さんや秋岡先輩をつかまると自慢げに「マツタケ」「コモウスタエステ」ごきげんいかが‥とやっている。これならおこれない。
職場で慣れるにしたがって、たえず別な問題が持ち上がった。誰が教えたのか、日本語で「バカヤロウ」「こんちきしょう」をスペイン人の洗い場のジョゼフがはっきりとした発音で話しかけてくる。本人はその意味は知らないのだが、私たち日本人をみると「バカヤロウ」と言ってくるのである。
はじめのうちは笑っていたが、こちらもそういつも調子が良いばかりではなく、仕事のトラブルで「ムカ」ついているときに‥タイミング悪く「バカヤロウ」と言われたものだから「つい」「コノヤロウ」「テメェ、フザケンジャーナイヨ」とジョゼフの胸ぐらをつかまえてしまった。
「殴れば」国外追放になる‥ということは秋岡先輩から何回も注意されていたので、持ち上げた「コブシ」のおきばに困り、「ぐるぐる」とまわしていた。
「おい、空手(からて)を知らねーか、お前のノーテンをぶち割ってやろーか?」「カラテ」という言葉がわかったようで「ムッシュウ、イマイ」「ヤメテヨ」「カラテ、ノーノー」ときた。ジョゼフ自身、なぜ胸ぐらをつかまえられたのかも分からず、その上「カラテ」のポーズをされたものだから慌てている。「二度と言うんじゃないよ」「ワカッタナー」と、その時はこれで済んだが、別な日に河崎さんが同じようにジョゼフをつかまえたときは、私も加勢して二人でジョゼフを大きな「スープ」をつくる「電気ガマ」の中に放り込んでやった。もちろん中は空であったし、使用中の「ナベ」ではないので心配はなかったが、ジョゼフにしてみれば、覚えた日本語を親しみをこめて言ったのにその都度日本人に「おそわれる」ので、さすがに「日本人はヤバンだ」という結論がでてからは私たちに近づかなくなっていった。
スイスに来て、一番おどろいたのは人種差別が非常にあるということだ。出稼ぎに来ているイタリア、スペイン人のコックはほとんどいない、全て下働きの仕事をする者だけがスイスで働けるようで、したがって彼等の地位は低く、掃除や洗い場、調理をする手伝いのジャガイモの皮むきや玉ねぎなどの下処理などであった。汚れているところがあると、スイス人のコック、見習いまでがやり直しを命じていたりする。
つい自分のクセでまわりを「そうじ」したりすると、「イマイ、ノーノー」といって仲間のコックたちがやらないように言ってくる。日本人的に考えればこの差別がなんとも気になるところだが、彼等の「仕事」をとってしまうということから考えれば、当然やらない方がよいのである。
職場では、小さな争いが頻繁におきる。しかし「殴り合い」はぜったいにしない。「ののしりあう」ということで言葉が入りみだれての「ケンカ」である。このときの言葉は、ここではちょっと書けないような下品な単語をならべたてて「怒鳴り合う」のである。おかげでその種の言葉すぐに覚えてしまった。
ある時、洗い場のジョゼフが男性の一物を日本語で教えろというので「マツタケだ」と答えると一度で覚えてしまった。ジョゼフは「バカなのか」河崎さんや秋岡先輩をつかまると自慢げに「マツタケ」「コモウスタエステ」ごきげんいかが‥とやっている。これならおこれない。

「ハダカ広場」
ベルンの街を散歩する余裕がでてきたのは、一ヶ月ぐらいすぎてからである。カジノレストランのそばにある橋を渡ると水面上までは25mぐらいあるので、橋の中央に立って見渡すとその景色はすばらしい。
ベルンの街をUの字に蛇行するように流れている「アアレ川」は、上からながめてその水量は多く、青々としている。まわりをみると重厚な建物が多く、連邦議事堂やひときわ高くそびえるミュンスター大聖堂が見える。聖堂の鐘楼は、100m位の高さがあり、270段も上がらなければ登れないので、まだ一度もトライはしていないが、教会の内部のステンドグラスはうす暗い中でひときわ目立つ入り口の上の方にある彫刻らしき浮き彫りはたくさんの群像の表情がなにか恐ろしげで色合わせているとはいえ、その表現があまり好きになれなかったが、教会の中で祈る人たちもいて自分の気持ちも心なしか落ちつくのであった。
仕事が終わると時計台(チークロック)の近くのシュパッツというビアレストランに行くのが「くせ」になり、この店まで歩く「石だたみ」の道路がすばらしく両側の店のショーウインドーがこれまた美しく飾ってあってながめるだけでも実に楽しいのである。
美術館にはピカソの絵が多くあったが、スイスの画家ポール・クレーの部屋があり、たくさんの絵が飾ってある。ポール・クレーの線の入った絵と静かな配色がすばらしく、すっかりそれらの絵が好きになり、暇があるとそれを見に美術館に通ったのである。
ベルン山と呼ばれる丘のようなところがあり、公園にもなっている。この公園の一角が「ハダカ天国」になっていて、この場所にかぎって上半身「ハダカ」になって「太陽浴」をすることができる。晴れた日にはたくさんの人たちが集まってきて、芝生の上にバスタオルやシートをひいて寝ころんでいる。この「ハダカ天国」には「アポランティ」が終わり「スイスの軍隊」に行って帰ってきたばかりの「フェリックス君」が連れていってくれた。
彼は「コミ」になったばかりで仕事はまあまあであるが、スポーツが好きでよく動く「ソウシエ係」であった。この「フェリックス君」とは、相性がよくすっかり仲良くなっていったのである。スイスの友達ができると「昼」の休憩時間は河崎さんとは少しずつ離れての行動になっていったが仕事が終わってからの「ビールのみ」には、相変わらず皆勤でのおつきあいであった。
フェリックス君は、3ヶ国語が話せるので、私との話はゴチャマセ語である。とりあえず通じる言葉で話し合うわけであるが、彼はいい加減にはせず私がわかるまで説明をしてくれる。
「ハダカ天国」で、私が腹に巻いている「さらし」がめずらしいようで「それが何のためか」ということを、周りの人たちも聞いてくる。私は腹が冷えると「ゲリ気味」になるので、小さい時は「金太郎」をしていたんだと「絵」に書いて説明したときには、まわりで「みんな」に大笑いされた。・・・腹にかけた金太郎と「おしり」を書いてそこからほとばしっている「便」(!)を描いたのが「リアル」すぎたようだ。
昼の休憩時間に、異国の人とつきあうことは言葉もそうであるが度胸もついてくる。しかし夜、仕事が終わってからは別だ。河崎さん、野中さん、中谷さんと4人が同じテーブルに座って何を話すでもなく「ビール」をのみながら過ごすのである。その間、秋岡さんはアパートに帰り一人、日本への手紙を書いているのである
ベルンの街を散歩する余裕がでてきたのは、一ヶ月ぐらいすぎてからである。カジノレストランのそばにある橋を渡ると水面上までは25mぐらいあるので、橋の中央に立って見渡すとその景色はすばらしい。
ベルンの街をUの字に蛇行するように流れている「アアレ川」は、上からながめてその水量は多く、青々としている。まわりをみると重厚な建物が多く、連邦議事堂やひときわ高くそびえるミュンスター大聖堂が見える。聖堂の鐘楼は、100m位の高さがあり、270段も上がらなければ登れないので、まだ一度もトライはしていないが、教会の内部のステンドグラスはうす暗い中でひときわ目立つ入り口の上の方にある彫刻らしき浮き彫りはたくさんの群像の表情がなにか恐ろしげで色合わせているとはいえ、その表現があまり好きになれなかったが、教会の中で祈る人たちもいて自分の気持ちも心なしか落ちつくのであった。
仕事が終わると時計台(チークロック)の近くのシュパッツというビアレストランに行くのが「くせ」になり、この店まで歩く「石だたみ」の道路がすばらしく両側の店のショーウインドーがこれまた美しく飾ってあってながめるだけでも実に楽しいのである。
美術館にはピカソの絵が多くあったが、スイスの画家ポール・クレーの部屋があり、たくさんの絵が飾ってある。ポール・クレーの線の入った絵と静かな配色がすばらしく、すっかりそれらの絵が好きになり、暇があるとそれを見に美術館に通ったのである。
ベルン山と呼ばれる丘のようなところがあり、公園にもなっている。この公園の一角が「ハダカ天国」になっていて、この場所にかぎって上半身「ハダカ」になって「太陽浴」をすることができる。晴れた日にはたくさんの人たちが集まってきて、芝生の上にバスタオルやシートをひいて寝ころんでいる。この「ハダカ天国」には「アポランティ」が終わり「スイスの軍隊」に行って帰ってきたばかりの「フェリックス君」が連れていってくれた。
彼は「コミ」になったばかりで仕事はまあまあであるが、スポーツが好きでよく動く「ソウシエ係」であった。この「フェリックス君」とは、相性がよくすっかり仲良くなっていったのである。スイスの友達ができると「昼」の休憩時間は河崎さんとは少しずつ離れての行動になっていったが仕事が終わってからの「ビールのみ」には、相変わらず皆勤でのおつきあいであった。
フェリックス君は、3ヶ国語が話せるので、私との話はゴチャマセ語である。とりあえず通じる言葉で話し合うわけであるが、彼はいい加減にはせず私がわかるまで説明をしてくれる。
「ハダカ天国」で、私が腹に巻いている「さらし」がめずらしいようで「それが何のためか」ということを、周りの人たちも聞いてくる。私は腹が冷えると「ゲリ気味」になるので、小さい時は「金太郎」をしていたんだと「絵」に書いて説明したときには、まわりで「みんな」に大笑いされた。・・・腹にかけた金太郎と「おしり」を書いてそこからほとばしっている「便」(!)を描いたのが「リアル」すぎたようだ。
昼の休憩時間に、異国の人とつきあうことは言葉もそうであるが度胸もついてくる。しかし夜、仕事が終わってからは別だ。河崎さん、野中さん、中谷さんと4人が同じテーブルに座って何を話すでもなく「ビール」をのみながら過ごすのである。その間、秋岡さんはアパートに帰り一人、日本への手紙を書いているのである

「手抜き」
グランシェフのシュネッツさんの信頼があつい秋岡さんは、たえず語学を勉強している 。仕事が出来ることは言葉が通じるかどうかで決まる。シェフからの仕事の伝達が、私たちのところでストップしてしまうので、オーバーに両手を広げて「はい、それまでよ‥」てなジェスチャーがくり返される。
秋岡さんは、その実力からコック達が全員、食事のために食堂に行ってしまうと調理場に一人残って留守番をしている。 その日の夕方、全員で食事に行き、調理場に置いてきた「メモ帖」をとりに行くと、「イマチャン、これ食べなよ」と布がかけてあるマナイタのところから「アツアツのステーキ」の切ったのをゆびさしている。「ウへーありがたいね、今夜の食事はスープだけで辞めていたんだよ」‥ヒレステーキは、ミディアムレア、上質の肉は塩、胡椒だけ でも実においしい。
「ついでにラーメンを食べるかい」‥とアントレメテユの今夜の「つけ合わせ」であるヌードルをカップに入れると、別の保温器であたためてある「コンソメスープ」を注いでくれた。
「いや、ありがたいね‥ラーメンだよ‥たまらねぇっすよ‥」きざんだ玉ねぎが薬味代わりである。
ステーキと「珍ラーメン」を食べ、食堂にもどっていくと、ノートを広げて、さも仕事内容を「メモ」をしているようなまじめなポーズに、ちらりと私の方をみた二番のルーフさんが「にこり」と笑いかけてきた。
日本語には、「知らぬがホトケ‥」という言葉があるんです。ノートには「うめいよ‥なるほどね、ヌードルとコンソメか」‥今夜も気持ちよく仕事ができることだろう。
次は、何を食べさせてくれるか楽しみである。
酒をのまない秋岡さんは「夜のつき合い」はしないが、実は大変に「カケ事」が大好きなのである。「ショーギ」は、自分では飛車角落ちでもかなわない。唯一たたかえるのは「ポーカー」である。 一週間に一度ぐらいのペースで日本人5人が集まって「カード」を楽しむのであった。
「カケ金」は、1本が1フラン、おたがいに無理をしないゲームにしようということでアップ率を少なくしてやっていても「カケ事」はやはり「アツ」くなる。
翌日、休みの人はよいが仕事の人は「赤い目」をして職場に向かうのである。この集会はストレスのたまっている我々にとっては非常に必要なことであった。
その証拠に、仕事中の「イラツキ」がなくなったのである。どんなに怒鳴られようと「へえ、わかりました」「ごめんなさいね‥」というように気持ちが切りかえることができたのである。
一見まじめに見える秋岡さんが、ちょっと「手抜きする」「イタズラをする」ようなことが、このスイスでの生活の中には大切なのだと思え、気分的に楽になったのである。
ところが事件はおきた。
それは、私と河崎さんが秋岡さんの住んでいるアパートに合流してからであるが、夜中12時をすぎても「ゲーム」は辞めるどころか、オーバーヒートしていき、話し声も大きくなっていった。 ふと気がつくと、床下が何かでつつかれたように「ドンドン」と音がしている。アパートの下には、支配人のファミリーが住んでいる。翌日わかったことであるが、話し声がやかましいので、支配人の「マダム」が棒でつついたということである。
このことはすぐに「エスワイルさん」に報告され、早速「ダメヨ、ニホントチガイマス。シヅカニスルコトネ」と注意を受けたのである。「ゲーム」をやっていたということで「ホドホドデス」ともつけ加えられたのである。「カケ事」とは分からなかったのがせめてもの救いであった‥。
グランシェフのシュネッツさんの信頼があつい秋岡さんは、たえず語学を勉強している 。仕事が出来ることは言葉が通じるかどうかで決まる。シェフからの仕事の伝達が、私たちのところでストップしてしまうので、オーバーに両手を広げて「はい、それまでよ‥」てなジェスチャーがくり返される。
秋岡さんは、その実力からコック達が全員、食事のために食堂に行ってしまうと調理場に一人残って留守番をしている。 その日の夕方、全員で食事に行き、調理場に置いてきた「メモ帖」をとりに行くと、「イマチャン、これ食べなよ」と布がかけてあるマナイタのところから「アツアツのステーキ」の切ったのをゆびさしている。「ウへーありがたいね、今夜の食事はスープだけで辞めていたんだよ」‥ヒレステーキは、ミディアムレア、上質の肉は塩、胡椒だけ でも実においしい。
「ついでにラーメンを食べるかい」‥とアントレメテユの今夜の「つけ合わせ」であるヌードルをカップに入れると、別の保温器であたためてある「コンソメスープ」を注いでくれた。
「いや、ありがたいね‥ラーメンだよ‥たまらねぇっすよ‥」きざんだ玉ねぎが薬味代わりである。
ステーキと「珍ラーメン」を食べ、食堂にもどっていくと、ノートを広げて、さも仕事内容を「メモ」をしているようなまじめなポーズに、ちらりと私の方をみた二番のルーフさんが「にこり」と笑いかけてきた。
日本語には、「知らぬがホトケ‥」という言葉があるんです。ノートには「うめいよ‥なるほどね、ヌードルとコンソメか」‥今夜も気持ちよく仕事ができることだろう。
次は、何を食べさせてくれるか楽しみである。
酒をのまない秋岡さんは「夜のつき合い」はしないが、実は大変に「カケ事」が大好きなのである。「ショーギ」は、自分では飛車角落ちでもかなわない。唯一たたかえるのは「ポーカー」である。 一週間に一度ぐらいのペースで日本人5人が集まって「カード」を楽しむのであった。
「カケ金」は、1本が1フラン、おたがいに無理をしないゲームにしようということでアップ率を少なくしてやっていても「カケ事」はやはり「アツ」くなる。
翌日、休みの人はよいが仕事の人は「赤い目」をして職場に向かうのである。この集会はストレスのたまっている我々にとっては非常に必要なことであった。
その証拠に、仕事中の「イラツキ」がなくなったのである。どんなに怒鳴られようと「へえ、わかりました」「ごめんなさいね‥」というように気持ちが切りかえることができたのである。
一見まじめに見える秋岡さんが、ちょっと「手抜きする」「イタズラをする」ようなことが、このスイスでの生活の中には大切なのだと思え、気分的に楽になったのである。
ところが事件はおきた。
それは、私と河崎さんが秋岡さんの住んでいるアパートに合流してからであるが、夜中12時をすぎても「ゲーム」は辞めるどころか、オーバーヒートしていき、話し声も大きくなっていった。 ふと気がつくと、床下が何かでつつかれたように「ドンドン」と音がしている。アパートの下には、支配人のファミリーが住んでいる。翌日わかったことであるが、話し声がやかましいので、支配人の「マダム」が棒でつついたということである。
このことはすぐに「エスワイルさん」に報告され、早速「ダメヨ、ニホントチガイマス。シヅカニスルコトネ」と注意を受けたのである。「ゲーム」をやっていたということで「ホドホドデス」ともつけ加えられたのである。「カケ事」とは分からなかったのがせめてもの救いであった‥。

「フランス語の学校」
まじめな中谷さんが「語学の勉強をしようよ」と誘ってきた。
いくらまわりで「フランス語」を話す人がいても、それは「ただ通じる」というだけであって「フランス語」の会話ではない。
覚えるためには、やはり「学校」に行かなければならない‥‥ということで仲よし4人組は、休憩時間を利用して「ベルリッツスクール」に通うことになった。 団体割引きになるということでもう一人日本人を誘い、5人での「クラス」をつくったのである。 野中、中谷さんのいるベルビュパレスホテルに、サービスとマネージメントを勉強に来ていたYさんが加わった。フランス語の会話力は、全員とも横ならびであるから楽しい教室であった。
私たち日本人一行の先生は「マダム・スミスさん」50才前後のメガネをかけて笑い顔のすてきな先生である。 欲を云えばちょっとフトリすぎかな‥‥
始めは、やさしい会話なので皆元気よくついていけたが、だんだん動詞の変化などになってくると「あやしいやつ」が出始めてくる。 休憩時間になって「学校のクラス」が始まるまでに30分程の時間があるため、カフェテラスに行ってコーヒーを飲んでいればよいのだが、つい「ノド」をしめておこう、などとビールを飲んでしまう。暖房のある部屋での「レッスン」は、気持ちがよい。つい「すやすや」と寝入ってしまう者もいる。発音させる順番が5人もいるとなかなかやってこない。普段でも眠い時間である。「ねむるな」という方が無理な話で、その点は笑っていた「マダム」は、しまいには本当に怒りだして「いいかげんにしなさい」ということで机の上を思いきりたたいている。
「日本人は眠る民族か?」とも聞こえる言葉に中谷さんは、隣にいる野中さんを起しているが、本人も先程まで寝入っていたのだから、なぜか「ピント」のあわない顔をしている。
学校の月謝は高く、「のんびり」と寝ている場合ではないのだが「レッスン前」の「ちょいと一杯」は、その代償が大きいのである。
仲間意識があるためか途中で辞める人はなく、この「イネムリクラス」は約8ヶ月は続いたのである。私たちの会話は少しづつであるが上達していったのは、この学校に行ったおかげであろう。
職場での会話も「ボデー会話」に磨きがかかり、「スイスドイツ語」「フランス語」「スペイン語」「イタリア語」の単語が少しづつではあるが発音する楽しさが加わってきたのもこの頃であった。 言葉が通じると「話をする」という「チャンス」が生じ、さらに磨きがかかる。
特に「悪い言葉」‥‥相手を「ケナス‥‥ののしる‥‥」この言葉は、いや応なしに頭の中に入り込んで離れなくなっていくのである。 不思議なことに「悪い言葉」は覚えやすいのである。とくに「イタリア人」への悪い言葉が「スペイン人」やスイスやフランス人が用いるのである。
「マフィヤー」から来るのであろうか、これに関連した言葉が数多くあり、その他、性的な悪い言葉には、訳をしなくともそのまま通じるのであるからその道の奥の深さを感じるのであった。
まじめな中谷さんが「語学の勉強をしようよ」と誘ってきた。
いくらまわりで「フランス語」を話す人がいても、それは「ただ通じる」というだけであって「フランス語」の会話ではない。
覚えるためには、やはり「学校」に行かなければならない‥‥ということで仲よし4人組は、休憩時間を利用して「ベルリッツスクール」に通うことになった。 団体割引きになるということでもう一人日本人を誘い、5人での「クラス」をつくったのである。 野中、中谷さんのいるベルビュパレスホテルに、サービスとマネージメントを勉強に来ていたYさんが加わった。フランス語の会話力は、全員とも横ならびであるから楽しい教室であった。
私たち日本人一行の先生は「マダム・スミスさん」50才前後のメガネをかけて笑い顔のすてきな先生である。 欲を云えばちょっとフトリすぎかな‥‥
始めは、やさしい会話なので皆元気よくついていけたが、だんだん動詞の変化などになってくると「あやしいやつ」が出始めてくる。 休憩時間になって「学校のクラス」が始まるまでに30分程の時間があるため、カフェテラスに行ってコーヒーを飲んでいればよいのだが、つい「ノド」をしめておこう、などとビールを飲んでしまう。暖房のある部屋での「レッスン」は、気持ちがよい。つい「すやすや」と寝入ってしまう者もいる。発音させる順番が5人もいるとなかなかやってこない。普段でも眠い時間である。「ねむるな」という方が無理な話で、その点は笑っていた「マダム」は、しまいには本当に怒りだして「いいかげんにしなさい」ということで机の上を思いきりたたいている。
「日本人は眠る民族か?」とも聞こえる言葉に中谷さんは、隣にいる野中さんを起しているが、本人も先程まで寝入っていたのだから、なぜか「ピント」のあわない顔をしている。
学校の月謝は高く、「のんびり」と寝ている場合ではないのだが「レッスン前」の「ちょいと一杯」は、その代償が大きいのである。
仲間意識があるためか途中で辞める人はなく、この「イネムリクラス」は約8ヶ月は続いたのである。私たちの会話は少しづつであるが上達していったのは、この学校に行ったおかげであろう。
職場での会話も「ボデー会話」に磨きがかかり、「スイスドイツ語」「フランス語」「スペイン語」「イタリア語」の単語が少しづつではあるが発音する楽しさが加わってきたのもこの頃であった。 言葉が通じると「話をする」という「チャンス」が生じ、さらに磨きがかかる。
特に「悪い言葉」‥‥相手を「ケナス‥‥ののしる‥‥」この言葉は、いや応なしに頭の中に入り込んで離れなくなっていくのである。 不思議なことに「悪い言葉」は覚えやすいのである。とくに「イタリア人」への悪い言葉が「スペイン人」やスイスやフランス人が用いるのである。
「マフィヤー」から来るのであろうか、これに関連した言葉が数多くあり、その他、性的な悪い言葉には、訳をしなくともそのまま通じるのであるからその道の奥の深さを感じるのであった。

「クリスマス」
父、アメリカ人、母、スイス人を両親にもつポールの自宅は、ベルンから車で30分ぐらい走った小さな湖、トーンの町にあった。レマン湖の1/10ぐらいの大きさの湖は美しく、その高台に建てられているので別荘のようなつくりであった。
クリスマスに家に来ないかと誘われ、河崎さんと二人で電車に乗って来たのである。河崎さんは、日本にいるときは教会に通っていたというので、クリスマスの夜を一緒にすごそうというポールの誘いには「メルシィ、ポークー」ありがとうとすなおに喜んでいたが、毎年クリスマスの夜は人であふれる銀座で働いていた私には、クリスマスは「トンガリボーシ」をかぶり、赤鼻をつけた酔っ払いがよろけながら歩いている風景しか頭に浮かばなかったので、家に招かれることにとまどいがあった。
ポールは、スイス国籍なので19才のこの年は兵役前のクリスマスである。まだコック見習いの「アポランティ」であるが、この軍務に服すると「コミィ・ドゥ・キュジィヌ」になるということである。
河崎さんは、賛美歌をうたえるということなので心強いパートナーであったが、一度もベルンの教会に出かけている様子はなかった。
ポールの家に着くと早速家族を紹介された。おじいちゃん、おばあちゃん、妹のローザの4人家族、兄妹の両親は、アメリカ、ボストンに住んでいるということである。
ポールは、アメリカ人の顔立ちであったが、妹のローザは、スイス人の顔をしたチャーミングな女の子であった。13才ということだが、年令より若く見えた。
ボデーラングでのポールとの話は通じるが、話好きなおばあちゃんの言葉は、ほとんどわからない。ローザが英語で通訳をしてくれるが、あまりにも英語の発音が流調なので「わかりません」のポーズをとる二人であった。
早速、食卓につくと「お祈りを」してから食事がはじまった。「祈る」という経験のない私には長く感じられたが、となりの河崎さんの「マネ」をして口の中で「モグモグ」と言葉をころがした。
オードヴルは、「魚のテリーヌ」で、ソースはタルタルソースであった。ポールが作ったと、はっきりわかるほど形は悪かったが、味はおいしかった。きゅうりのうす切りのドレッシング和えが歯ざわりもあって実においしいので、「オカワリ」をしてポールを喜ばせた。
メインは、ローストチキンが2羽焼いてあった。エストラゴンが詰められていて香りがよい。つけ合せのポテトにニンニクがきいていて、家庭風味が食欲を増す。さらに「インゲンのオリーブいため」がこれまたおいしいので、「オカワリ」の連続であった。
やがて、二人とも「食べすぎて」しまったことに気がつくのがおそく、次にテーブルにお取り皿と共におかれたチーズの盛り合せや、その後に食卓におかれたチョコレートケーキを「うらめしく」ながめるだけであった。
「食べないと失礼だよ」と言っている河崎さんも言葉とはうらはらに、持ったケーキナイフをおく場所に困っていた。ようするに私たちは、招かれて食事をするという経験がないため「食べ方」のタイミングが悪かったのである。少しづつ食べてデザートまで胃袋におさめられる「スキマ」をつくっていなければならないのを考えていなかったのは「ウカツ」であった。
ワインは白、赤をグラスに一杯ずついただき、こちらの方は心地よい酔いがあった。食事が済むと、小さなツリーの木が飾ってある居間にうつり、食後酒をいただく。
アルコール度数のある「洋なしのリキール」は、「食べすぎて」身動きのとれない二人の胃袋を少しづつ消化させてくれた。
おばあちゃんのゆっくりとした言葉で、再び「お祈り」がはじまる。 ふと気がつくと妹のローザーが泣いている。その肩を兄のポールがだきよせ、ポール自身も泣いているのだ。はじめてのクリスマスの夜は実に静かで、そして人々の祈る姿は温かくそして美しいものであった。
しばらくして、妹のローザが立ちあがり、ツリーの木のそばに近づき、まわりにおいてあったプレゼントを送り主の名前を読み上げながら手渡していった。プレゼンターとしてもローザは美しかったし、この夜のスタァーであった。私と河崎さんも、名前の入ったカードと共にプレゼントを全員からもらった。
私は今夜のために赤ワインを一本ぶらさげていっただけの招かれた客であったが、河崎さんは前もってポールから聞いていたらしく、全員のプレゼントをポールに渡してあったようだ。ポールがその品物をそれぞれにカードとリボンをつけて、分配してくれていたのである。何も知らなかった私は、それぞれの気持ちを知ってジーンとこみあげるものがあり、祈りの終わったあとに一人涙ぐむのであった。
プレゼントは、スイスの道路地図、トーンの街の絵ハガキ、切手シール、ボールペンとそれぞれ値段の高価なものではなかったが、ほんとうの、心のこもったプレゼントをたくさんいただいたクリスマスの夜であった。
父、アメリカ人、母、スイス人を両親にもつポールの自宅は、ベルンから車で30分ぐらい走った小さな湖、トーンの町にあった。レマン湖の1/10ぐらいの大きさの湖は美しく、その高台に建てられているので別荘のようなつくりであった。
クリスマスに家に来ないかと誘われ、河崎さんと二人で電車に乗って来たのである。河崎さんは、日本にいるときは教会に通っていたというので、クリスマスの夜を一緒にすごそうというポールの誘いには「メルシィ、ポークー」ありがとうとすなおに喜んでいたが、毎年クリスマスの夜は人であふれる銀座で働いていた私には、クリスマスは「トンガリボーシ」をかぶり、赤鼻をつけた酔っ払いがよろけながら歩いている風景しか頭に浮かばなかったので、家に招かれることにとまどいがあった。
ポールは、スイス国籍なので19才のこの年は兵役前のクリスマスである。まだコック見習いの「アポランティ」であるが、この軍務に服すると「コミィ・ドゥ・キュジィヌ」になるということである。
河崎さんは、賛美歌をうたえるということなので心強いパートナーであったが、一度もベルンの教会に出かけている様子はなかった。
ポールの家に着くと早速家族を紹介された。おじいちゃん、おばあちゃん、妹のローザの4人家族、兄妹の両親は、アメリカ、ボストンに住んでいるということである。
ポールは、アメリカ人の顔立ちであったが、妹のローザは、スイス人の顔をしたチャーミングな女の子であった。13才ということだが、年令より若く見えた。
ボデーラングでのポールとの話は通じるが、話好きなおばあちゃんの言葉は、ほとんどわからない。ローザが英語で通訳をしてくれるが、あまりにも英語の発音が流調なので「わかりません」のポーズをとる二人であった。
早速、食卓につくと「お祈りを」してから食事がはじまった。「祈る」という経験のない私には長く感じられたが、となりの河崎さんの「マネ」をして口の中で「モグモグ」と言葉をころがした。
オードヴルは、「魚のテリーヌ」で、ソースはタルタルソースであった。ポールが作ったと、はっきりわかるほど形は悪かったが、味はおいしかった。きゅうりのうす切りのドレッシング和えが歯ざわりもあって実においしいので、「オカワリ」をしてポールを喜ばせた。
メインは、ローストチキンが2羽焼いてあった。エストラゴンが詰められていて香りがよい。つけ合せのポテトにニンニクがきいていて、家庭風味が食欲を増す。さらに「インゲンのオリーブいため」がこれまたおいしいので、「オカワリ」の連続であった。
やがて、二人とも「食べすぎて」しまったことに気がつくのがおそく、次にテーブルにお取り皿と共におかれたチーズの盛り合せや、その後に食卓におかれたチョコレートケーキを「うらめしく」ながめるだけであった。
「食べないと失礼だよ」と言っている河崎さんも言葉とはうらはらに、持ったケーキナイフをおく場所に困っていた。ようするに私たちは、招かれて食事をするという経験がないため「食べ方」のタイミングが悪かったのである。少しづつ食べてデザートまで胃袋におさめられる「スキマ」をつくっていなければならないのを考えていなかったのは「ウカツ」であった。
ワインは白、赤をグラスに一杯ずついただき、こちらの方は心地よい酔いがあった。食事が済むと、小さなツリーの木が飾ってある居間にうつり、食後酒をいただく。
アルコール度数のある「洋なしのリキール」は、「食べすぎて」身動きのとれない二人の胃袋を少しづつ消化させてくれた。
おばあちゃんのゆっくりとした言葉で、再び「お祈り」がはじまる。 ふと気がつくと妹のローザーが泣いている。その肩を兄のポールがだきよせ、ポール自身も泣いているのだ。はじめてのクリスマスの夜は実に静かで、そして人々の祈る姿は温かくそして美しいものであった。
しばらくして、妹のローザが立ちあがり、ツリーの木のそばに近づき、まわりにおいてあったプレゼントを送り主の名前を読み上げながら手渡していった。プレゼンターとしてもローザは美しかったし、この夜のスタァーであった。私と河崎さんも、名前の入ったカードと共にプレゼントを全員からもらった。
私は今夜のために赤ワインを一本ぶらさげていっただけの招かれた客であったが、河崎さんは前もってポールから聞いていたらしく、全員のプレゼントをポールに渡してあったようだ。ポールがその品物をそれぞれにカードとリボンをつけて、分配してくれていたのである。何も知らなかった私は、それぞれの気持ちを知ってジーンとこみあげるものがあり、祈りの終わったあとに一人涙ぐむのであった。
プレゼントは、スイスの道路地図、トーンの街の絵ハガキ、切手シール、ボールペンとそれぞれ値段の高価なものではなかったが、ほんとうの、心のこもったプレゼントをたくさんいただいたクリスマスの夜であった。

「愛車」
毎日の様に会っている中谷さんと野中さん、河崎さんと私は「車」を買おうということになった。ベルンの町の中は市電も通っているので「車」は必要なかったが、共同で購入して使用すれば安くすむということで、イタリアの車フィヤット500を買うことになった。
私と中谷さんは免許証を持っていたが、野中さんと河崎さんは「スイスの免許証」をとることにして、そのためには「小さな車」がよいだろうということになった。
いざ運転するとなると、日本とは運転席の異なる「左ハンドル」は「キケン」がいっぱいである。角を曲がっていくと目の前に対向車があったりして「ひやり」とする。対向車に何度となく「どなりつけられ」、少しずつ慣れていった。 慣れてくると「運転出来ない」二人のオーナーから「どこかにドライブせよ」とリクエストがある。初めは近いところ慣れた道路でのドライブであったが、ベルンの市外へと出かけるようになった。
性格のおとなしい中谷さんはあまり自分から運転することはなく、後部座席でおとなしくしているが、「運転免許」のない野中さん、河崎さんは「思いが通じない」もどかしさに早速「運転免許」をとるための手続きをしてしまった。
結局この二人が免許証をとれたのは、1カ月ぐらいかかったのである。 「免許とれたて」 の「車」には「キケン」がいっぱいと思うのはとうぜんのことであるが、二人とも「うまい」もので「教え方」がよかったのかも知れないが、スイスの街の中を走る「テクニック」は私たちよりうまいのである。
幸いにして「休日」が「バラバラ」なので「愛車」のうばいあいにはならずそれぞれが必要なときに「ドライブ」に出かけていった。
「免許」をとったばかりの野中さんは、どうしても「チュリッヒ」に行きたいので「行ってくれ」と私の「休日」にわざわざあわせてとり、二人で出かけたこともあった。
「市内走行」の場合は「スピード」ひかえめであるが、「チュリッヒ」までの「ルート」となると、ときおりすれ違う車や追い越していく車の130kmから180kmのスピードには「おどろき」であった。
野中さんは私たちの「愛車」が「スピード」のでないのをくやしがり、「追っていけ」「それ、150kmぐらい出せよ」と助手席でぐちっているが、「500cc」の車のスピードはせめて100kmぐらいである。それ以上スピードをだそうとすると、「車」がぶれるような感じになるので無理ははしないようにしている。ところが事故にならなくともあぶない目にはなんどかあって、あと止まるのが一秒おくれたらとんでもない事故につながったことであろうと、その後おもいだしては寒気がしたものである。
その日も助手席には野中さんが座っていた。前方を行くトラックのスピードにあわせて、80kmぐらいで走っていた。話しにも夢中になっていて、トラックが止まったのを確認したのがおそく、急ブレーキをふんでどうにかぶつからずに済んだが、不幸中の幸いでトラックの下に入り込んだために助かったのである。後部が高かったのと、こちらの車が小さかったから事故にならなかったのである。
当時の日本は、まだ東名高速がなかったので、その走り方も知らなかったのだからあぶない話である。
毎日の様に会っている中谷さんと野中さん、河崎さんと私は「車」を買おうということになった。ベルンの町の中は市電も通っているので「車」は必要なかったが、共同で購入して使用すれば安くすむということで、イタリアの車フィヤット500を買うことになった。
私と中谷さんは免許証を持っていたが、野中さんと河崎さんは「スイスの免許証」をとることにして、そのためには「小さな車」がよいだろうということになった。
いざ運転するとなると、日本とは運転席の異なる「左ハンドル」は「キケン」がいっぱいである。角を曲がっていくと目の前に対向車があったりして「ひやり」とする。対向車に何度となく「どなりつけられ」、少しずつ慣れていった。 慣れてくると「運転出来ない」二人のオーナーから「どこかにドライブせよ」とリクエストがある。初めは近いところ慣れた道路でのドライブであったが、ベルンの市外へと出かけるようになった。
性格のおとなしい中谷さんはあまり自分から運転することはなく、後部座席でおとなしくしているが、「運転免許」のない野中さん、河崎さんは「思いが通じない」もどかしさに早速「運転免許」をとるための手続きをしてしまった。
結局この二人が免許証をとれたのは、1カ月ぐらいかかったのである。 「免許とれたて」 の「車」には「キケン」がいっぱいと思うのはとうぜんのことであるが、二人とも「うまい」もので「教え方」がよかったのかも知れないが、スイスの街の中を走る「テクニック」は私たちよりうまいのである。
幸いにして「休日」が「バラバラ」なので「愛車」のうばいあいにはならずそれぞれが必要なときに「ドライブ」に出かけていった。
「免許」をとったばかりの野中さんは、どうしても「チュリッヒ」に行きたいので「行ってくれ」と私の「休日」にわざわざあわせてとり、二人で出かけたこともあった。
「市内走行」の場合は「スピード」ひかえめであるが、「チュリッヒ」までの「ルート」となると、ときおりすれ違う車や追い越していく車の130kmから180kmのスピードには「おどろき」であった。
野中さんは私たちの「愛車」が「スピード」のでないのをくやしがり、「追っていけ」「それ、150kmぐらい出せよ」と助手席でぐちっているが、「500cc」の車のスピードはせめて100kmぐらいである。それ以上スピードをだそうとすると、「車」がぶれるような感じになるので無理ははしないようにしている。ところが事故にならなくともあぶない目にはなんどかあって、あと止まるのが一秒おくれたらとんでもない事故につながったことであろうと、その後おもいだしては寒気がしたものである。
その日も助手席には野中さんが座っていた。前方を行くトラックのスピードにあわせて、80kmぐらいで走っていた。話しにも夢中になっていて、トラックが止まったのを確認したのがおそく、急ブレーキをふんでどうにかぶつからずに済んだが、不幸中の幸いでトラックの下に入り込んだために助かったのである。後部が高かったのと、こちらの車が小さかったから事故にならなかったのである。
当時の日本は、まだ東名高速がなかったので、その走り方も知らなかったのだからあぶない話である。

「アパート」
アパートは職場から歩いて30分くらいのところにある。店の支配人のマダムが管理人となり、スペイン人を使って「そうじ」をしたり、「ベッドメイク」してくれたりするので恵まれたアパート住まいであった。
カラフルな色の市内電車で通うことも出来たが、都合良く来れば乗るし来なければ歩いて丁度良い場所にあった。
秋岡さん、河崎さん、Mさんはドイツで2年ほどお菓子を勉強して私たちより1ヶ月ぐらい後にカジノレストランのパティシェリーに入ってきた人で、ドイツ語が「話せる」人であった。
都合、4人の日本人が住むことになったアパートは4LDKぐらいの「スペース」があり、広い部屋はいつもきれいに「そうじ」してもらっていたので快適な生活であったが、下の階に管理人のマダムがいるので、いつも見張られている感じはあった。
日本人が集まって「ゲーム」をやったり、食事を作ったりすると、どうしても楽しいパーティーになってしまう。
つい「ハメ」を外して騒ぐものだから、翌日店の方にエス・ワイルさんがやって来て「ココハ、ニホントチガウ。パーティー、ヤッテハダメネ。ギターデ、ウタワナイコト。」
酒が入ってくれば、下手な私のギターの「バンソー」にあわせて「チャンチキ、オケサ」を歌うやつがいて、賑やかすぎたのがいけなかったのである。
日本人が集まると「スキヤキパーティー」となる。食器道具を用意すると、一応、食事は店ですることになっているので、安い「洗面器」を買ってくる。最初から食器道具として用いればこんな便利なものはない。「水たき」もできるし、スパゲティもゆでられる。中でも人気があったのが「水たきのようなヌードルスープ」である。「スキヤキ」は「ショーユ」を使いすぎるのと、部屋の匂いが消えないのであまり出来ないのが残念であった。
「ごはん」は鍋を用意したが、使用しないときはロッカーの中にしまっておくことにした。「ごはん」に「水たき」や「スキヤキ」となると「香の物」…「おしんこ」がほしくなる。キャベツやキュウリ、ニンジンを細切りにして塩もみして「一夜漬け」にする。これもエキサイトしてくると「ヌカ漬け」がいいねと誰かにさそい水をむけられると「パン粉」で漬け物をつくったりする。日本食に必要な調味料は、それぞれが日本の留守宅や親もとから送られてくるので困らなかったのである。
日本食が作れる、食べられるとなると、次から次へと献立がひろがり、人が集まる。やがてパーティーになるという結果は、管理人を困らせることになるのであった。
「ヌカ漬け」「塩から」はさすがに部屋の中やロッカーに入れるわけにいかず「ベランダ」に置くことにした。マダムにみつからぬよう器を並べその上にボール紙をのせ、小さな植木鉢を置く。こんな細工は一日で見やぶられてしまったが、発酵する前であったのでそれが「何であるか」はわからなかったのである。
不思議なもので、日本食を食べなければ「がまん」はできるのであるが、一度食べると「食べたくて仕方なく」なるのも日本人としての「あたり前」の食欲なのであろう。
同じ仲間のうちでも「がまんできる」中谷さん、河崎さんと、出来ない野中さんと私とが「コンビ」を組んで行動するようになる。秋岡さんやMさんは「どちらでもよい」方で参加したりしなかったり、マイペースであった。
しかし「カケ事」…「ポーカー」は別であった。「カード」は全部オープンされた方が面白く、全員参加の方が迫力があって「ゲーム」はエキサイトするし「カケ金」も大きくなる。「カケ事」は、時間も忘れ「仕事」も考えず、「コッパラターミ」とどなられた昼のことなどすっかり忘れることができたのである。
アパートは職場から歩いて30分くらいのところにある。店の支配人のマダムが管理人となり、スペイン人を使って「そうじ」をしたり、「ベッドメイク」してくれたりするので恵まれたアパート住まいであった。
カラフルな色の市内電車で通うことも出来たが、都合良く来れば乗るし来なければ歩いて丁度良い場所にあった。
秋岡さん、河崎さん、Mさんはドイツで2年ほどお菓子を勉強して私たちより1ヶ月ぐらい後にカジノレストランのパティシェリーに入ってきた人で、ドイツ語が「話せる」人であった。
都合、4人の日本人が住むことになったアパートは4LDKぐらいの「スペース」があり、広い部屋はいつもきれいに「そうじ」してもらっていたので快適な生活であったが、下の階に管理人のマダムがいるので、いつも見張られている感じはあった。
日本人が集まって「ゲーム」をやったり、食事を作ったりすると、どうしても楽しいパーティーになってしまう。
つい「ハメ」を外して騒ぐものだから、翌日店の方にエス・ワイルさんがやって来て「ココハ、ニホントチガウ。パーティー、ヤッテハダメネ。ギターデ、ウタワナイコト。」
酒が入ってくれば、下手な私のギターの「バンソー」にあわせて「チャンチキ、オケサ」を歌うやつがいて、賑やかすぎたのがいけなかったのである。
日本人が集まると「スキヤキパーティー」となる。食器道具を用意すると、一応、食事は店ですることになっているので、安い「洗面器」を買ってくる。最初から食器道具として用いればこんな便利なものはない。「水たき」もできるし、スパゲティもゆでられる。中でも人気があったのが「水たきのようなヌードルスープ」である。「スキヤキ」は「ショーユ」を使いすぎるのと、部屋の匂いが消えないのであまり出来ないのが残念であった。
「ごはん」は鍋を用意したが、使用しないときはロッカーの中にしまっておくことにした。「ごはん」に「水たき」や「スキヤキ」となると「香の物」…「おしんこ」がほしくなる。キャベツやキュウリ、ニンジンを細切りにして塩もみして「一夜漬け」にする。これもエキサイトしてくると「ヌカ漬け」がいいねと誰かにさそい水をむけられると「パン粉」で漬け物をつくったりする。日本食に必要な調味料は、それぞれが日本の留守宅や親もとから送られてくるので困らなかったのである。
日本食が作れる、食べられるとなると、次から次へと献立がひろがり、人が集まる。やがてパーティーになるという結果は、管理人を困らせることになるのであった。
「ヌカ漬け」「塩から」はさすがに部屋の中やロッカーに入れるわけにいかず「ベランダ」に置くことにした。マダムにみつからぬよう器を並べその上にボール紙をのせ、小さな植木鉢を置く。こんな細工は一日で見やぶられてしまったが、発酵する前であったのでそれが「何であるか」はわからなかったのである。
不思議なもので、日本食を食べなければ「がまん」はできるのであるが、一度食べると「食べたくて仕方なく」なるのも日本人としての「あたり前」の食欲なのであろう。
同じ仲間のうちでも「がまんできる」中谷さん、河崎さんと、出来ない野中さんと私とが「コンビ」を組んで行動するようになる。秋岡さんやMさんは「どちらでもよい」方で参加したりしなかったり、マイペースであった。
しかし「カケ事」…「ポーカー」は別であった。「カード」は全部オープンされた方が面白く、全員参加の方が迫力があって「ゲーム」はエキサイトするし「カケ金」も大きくなる。「カケ事」は、時間も忘れ「仕事」も考えず、「コッパラターミ」とどなられた昼のことなどすっかり忘れることができたのである。

「プリン」誕生秘話
管理人のマダムはデンマークの人で、支配人のご主人はフランス人である。ご主人は私たちにお手本となるフランス語を話しかけてくれるが、アパートに帰ってからはほとんど顔をみせたことがない。
支配人は、フランス人でありながら仕事場ではドイツ語、イタリア語、スペイン語でウェイター、ウェイトレスたちに話しかけている。英語も話すのであるが、私たちがフランス語を勉強しているのを知り、あえて本物の発音をゆっくりと話してくれるのである。マダムとは何語で話しているかは分からないが、二人とも身長があり、ご主人のやさしいふんいきに対し、マダムは「ゴッツィ」感じで「しかられる」とその「ハクリョク」に小さな日本人は「タジタジ」となるのであった。
「よごさぬように片づけをしっかりするように」が合言葉であるが、何分にも酒の入った連中だからどうしても手抜きがある。この点をマダムが見逃すわけはない。「この匂いは何よ」とばかりに窓をあけ、下働きのスペインの「オバサン」に「ハッパ」をかけている。
「こうなったらこの手しかない」と河崎さん、日本から持ってきた「センス」を「マダム」に「カドーです…おみやげ」と差し出した。京都の舞い娘さんがえがかれていて「シャレた感じのセンスであった」。マダムは「メルシィボーク、ダンケシャン」「ありがとう、アリガトウ」といって角張った顔をくづして喜んでくれたが、このありがとうはこの時だけで、翌日はもうもとの「ゴッツイ」感じに戻っていた。「ちぇぃ、もう終わりかよ…」「もう少し気分がながもちしないのかよ…」と河崎さんの「ぐちる」気持ちも私にはよくわかった。なにしろ「オミヤゲ」…お世話になった人にアゲルようにとのアドバイスで持ってきた「おみやげ」がついに「ソコ…底」をついたのである。
その日は河崎さんの休日であった。夜、仕事が終わって私たちがアパートにもどってくると、部屋の中がなんとなく甘い匂いがしている。「あれ、これプリンの香りじゃない」と云うと「アタリ…」「また、どうして」…といぶかる私に「日本食はあまりに匂いが強烈なんだよ、このデザートの香りでも残しておけばマダムも少しは考え方を変えるんじゃない…」このアイデアは「その通り」のことがおこった。
翌日、いつものように「ゴッツイ」マダムは、モップを片手に入ってくると「おや…」という顔をして「なんの香り…デザートかしら」…そんなひとりごちながら台所にくると「う~ん、いい匂いだこと」と、いうような顔をして私をみた。「ムッシュゥ、カワサキのスペシャルナンデス…」と答えながら冷蔵庫の中に入れてあった「プリン」を「2ヶ」とりだし「ボアラ、プール、マダム」どうぞあなたのです。…スムーズなフランス語と私の最高の笑顔に演出された「プリン」は、「メルシィボークートレジャンティ」ありがとう親切ね…というような、なごやかなムードの中でマダムの手に渡り「器は後で返します…」と「2ヶ」のプリンをもって部屋を出ていったのである。
この「プリン」作戦は大成功であった。これに味をしめた私たちは「食事会」のあとには必ず河崎さんの「プリン」がつくられるようになった。事実、河崎さんの「プリン」は、パティシェリのMさんも「ゼッサン」するように「おいしく」その技術は、すばらしいものだった。
設備のととのっていない台所で「プリン」をつくるには、それなりの「テクニック」が必要だったが彼は簡単につくるのであった。それは私たちの「食事」の後の「カモフラージュ」に役に立ったのである。
管理人のマダムはデンマークの人で、支配人のご主人はフランス人である。ご主人は私たちにお手本となるフランス語を話しかけてくれるが、アパートに帰ってからはほとんど顔をみせたことがない。
支配人は、フランス人でありながら仕事場ではドイツ語、イタリア語、スペイン語でウェイター、ウェイトレスたちに話しかけている。英語も話すのであるが、私たちがフランス語を勉強しているのを知り、あえて本物の発音をゆっくりと話してくれるのである。マダムとは何語で話しているかは分からないが、二人とも身長があり、ご主人のやさしいふんいきに対し、マダムは「ゴッツィ」感じで「しかられる」とその「ハクリョク」に小さな日本人は「タジタジ」となるのであった。
「よごさぬように片づけをしっかりするように」が合言葉であるが、何分にも酒の入った連中だからどうしても手抜きがある。この点をマダムが見逃すわけはない。「この匂いは何よ」とばかりに窓をあけ、下働きのスペインの「オバサン」に「ハッパ」をかけている。
「こうなったらこの手しかない」と河崎さん、日本から持ってきた「センス」を「マダム」に「カドーです…おみやげ」と差し出した。京都の舞い娘さんがえがかれていて「シャレた感じのセンスであった」。マダムは「メルシィボーク、ダンケシャン」「ありがとう、アリガトウ」といって角張った顔をくづして喜んでくれたが、このありがとうはこの時だけで、翌日はもうもとの「ゴッツイ」感じに戻っていた。「ちぇぃ、もう終わりかよ…」「もう少し気分がながもちしないのかよ…」と河崎さんの「ぐちる」気持ちも私にはよくわかった。なにしろ「オミヤゲ」…お世話になった人にアゲルようにとのアドバイスで持ってきた「おみやげ」がついに「ソコ…底」をついたのである。
その日は河崎さんの休日であった。夜、仕事が終わって私たちがアパートにもどってくると、部屋の中がなんとなく甘い匂いがしている。「あれ、これプリンの香りじゃない」と云うと「アタリ…」「また、どうして」…といぶかる私に「日本食はあまりに匂いが強烈なんだよ、このデザートの香りでも残しておけばマダムも少しは考え方を変えるんじゃない…」このアイデアは「その通り」のことがおこった。
翌日、いつものように「ゴッツイ」マダムは、モップを片手に入ってくると「おや…」という顔をして「なんの香り…デザートかしら」…そんなひとりごちながら台所にくると「う~ん、いい匂いだこと」と、いうような顔をして私をみた。「ムッシュゥ、カワサキのスペシャルナンデス…」と答えながら冷蔵庫の中に入れてあった「プリン」を「2ヶ」とりだし「ボアラ、プール、マダム」どうぞあなたのです。…スムーズなフランス語と私の最高の笑顔に演出された「プリン」は、「メルシィボークートレジャンティ」ありがとう親切ね…というような、なごやかなムードの中でマダムの手に渡り「器は後で返します…」と「2ヶ」のプリンをもって部屋を出ていったのである。
この「プリン」作戦は大成功であった。これに味をしめた私たちは「食事会」のあとには必ず河崎さんの「プリン」がつくられるようになった。事実、河崎さんの「プリン」は、パティシェリのMさんも「ゼッサン」するように「おいしく」その技術は、すばらしいものだった。
設備のととのっていない台所で「プリン」をつくるには、それなりの「テクニック」が必要だったが彼は簡単につくるのであった。それは私たちの「食事」の後の「カモフラージュ」に役に立ったのである。

「ビア・ホール」
スイスに来てから、始めのうちは日本人がよりそうように一緒に行動していたが、昼の休憩時間とフランス語の学校に行くこと以外は、それぞれが行動を別にするようになった。それだけ、スイスでの生活に慣れてきたことになる。
しかし、夜になるとなぜか同じビアホールに集まってしまうのである。ほどほどに「おなか」もすくので「ハンバーガー」を食べたり、スパゲティと仔牛のミラネーズを食べたりする。仔牛の肉がおいしいので「細切りのクリームソース」や「ヴィシネッツターラ(ウィーン風仔牛のカツ)」などがいつものメニューとなる。 スイスの名物のチーズフォンデュや、シュークルートなどは、自分の店でもメニューで出しているので、「ビアホール」ではちょっとした軽食気分のメニューを好んで食べたのである。
夜の食事は、夕方の5時すぎに店の食堂で食べるので、仕事が終わり「ビール」をのむ時間になると空腹になっているのである。アパートから通うようになっても、朝食は店の食堂で「ミルクコーヒー」とパン、ハードなチーズを食べ、これにも慣れてきて少しづつではあるが「日本人」から脱皮しているようだ。
一時期は「マダム」に嫌われる程の「日本の食事」づくりも、だんだんと回数が少なくなってきている。それどころか、「チーズ」やパンや「ワイン」を持ち込んでくる人もいて、自然と「ワイン」を親しむようになってきた。ヨーロッパ生活のながい人ほどその「ケイコー」にあり、Mさんなどは「あまりごはんは身体によくないね」と「ごはん」を食べると「胃ぐすり」をのんでいた。
スイスの「ビール」は軽くのみやすい。水がわりでのむので「コルク」に細工のしてある大瓶を買ってきて、残ったビールを「セン」しておけば味を変えずにしまっておけるのである。昼間でものむので自然と酒量がふえてくるが、それがあたり前になると、つい「ビール」を「グィッ」ということになる。日本と異なるのは、湿気がないので空気がさわやかで酔った気分にならないため、昼間の「ビール」につい「つき合う」ことになる。
昼食夜食とも、食堂ではワインが出るのでアルコールの好きな人には最高だろう。と、思って見ているとそれは間違いであることに気がつく。ヨーロッパの人たちが食事のときに「のむワイン」は、食事のためのものである。飲む人は「グラス」に半分ぐらい注いでいく。
日本では、「ワイン」をのむということは、すなわちアルコール分を身体の中に入れることと考えられるが、ここスイスでは「食事のための」ワインであって、これはセットになっているもので酔うためのものではない。そのような意味を勝手につけて少しづつではあるが「ワイン」をのみながら食事をするようにしている。
仕事が終わってからの「ビール」は、これは酔うほどに楽しくなってきて仲間との会話もはづむのである。したがって量も増え、どのようにしてアパートに帰ったのかわからず、気がついたらベットの上に洋服のままひっくり返っているのであった。軽い味でのみやすいビールも、こうなると「仕事」への情熱の足をひっぱってしまうのである。
しかし若さは尊い「いやえらい」のであって、その夜もまたビアホールに足が向くのであった。
スイスに来てから、始めのうちは日本人がよりそうように一緒に行動していたが、昼の休憩時間とフランス語の学校に行くこと以外は、それぞれが行動を別にするようになった。それだけ、スイスでの生活に慣れてきたことになる。
しかし、夜になるとなぜか同じビアホールに集まってしまうのである。ほどほどに「おなか」もすくので「ハンバーガー」を食べたり、スパゲティと仔牛のミラネーズを食べたりする。仔牛の肉がおいしいので「細切りのクリームソース」や「ヴィシネッツターラ(ウィーン風仔牛のカツ)」などがいつものメニューとなる。 スイスの名物のチーズフォンデュや、シュークルートなどは、自分の店でもメニューで出しているので、「ビアホール」ではちょっとした軽食気分のメニューを好んで食べたのである。
夜の食事は、夕方の5時すぎに店の食堂で食べるので、仕事が終わり「ビール」をのむ時間になると空腹になっているのである。アパートから通うようになっても、朝食は店の食堂で「ミルクコーヒー」とパン、ハードなチーズを食べ、これにも慣れてきて少しづつではあるが「日本人」から脱皮しているようだ。
一時期は「マダム」に嫌われる程の「日本の食事」づくりも、だんだんと回数が少なくなってきている。それどころか、「チーズ」やパンや「ワイン」を持ち込んでくる人もいて、自然と「ワイン」を親しむようになってきた。ヨーロッパ生活のながい人ほどその「ケイコー」にあり、Mさんなどは「あまりごはんは身体によくないね」と「ごはん」を食べると「胃ぐすり」をのんでいた。
スイスの「ビール」は軽くのみやすい。水がわりでのむので「コルク」に細工のしてある大瓶を買ってきて、残ったビールを「セン」しておけば味を変えずにしまっておけるのである。昼間でものむので自然と酒量がふえてくるが、それがあたり前になると、つい「ビール」を「グィッ」ということになる。日本と異なるのは、湿気がないので空気がさわやかで酔った気分にならないため、昼間の「ビール」につい「つき合う」ことになる。
昼食夜食とも、食堂ではワインが出るのでアルコールの好きな人には最高だろう。と、思って見ているとそれは間違いであることに気がつく。ヨーロッパの人たちが食事のときに「のむワイン」は、食事のためのものである。飲む人は「グラス」に半分ぐらい注いでいく。
日本では、「ワイン」をのむということは、すなわちアルコール分を身体の中に入れることと考えられるが、ここスイスでは「食事のための」ワインであって、これはセットになっているもので酔うためのものではない。そのような意味を勝手につけて少しづつではあるが「ワイン」をのみながら食事をするようにしている。
仕事が終わってからの「ビール」は、これは酔うほどに楽しくなってきて仲間との会話もはづむのである。したがって量も増え、どのようにしてアパートに帰ったのかわからず、気がついたらベットの上に洋服のままひっくり返っているのであった。軽い味でのみやすいビールも、こうなると「仕事」への情熱の足をひっぱってしまうのである。
しかし若さは尊い「いやえらい」のであって、その夜もまたビアホールに足が向くのであった。

「ミュンヘンのビールまつり」
パティシェリのMさんは静かな人で、「おつきあい」にはついてくるが、ほとんど目立たない。私と河崎さんの「経済」‥フトコロ具合は、月末には底がつき「今夜は借しておいてください」とMさんに全面的に協力をお願いする。お金がなくなれば出かけるのをやめればよいのだが、Mさんをひっぱりだせばなんとかなるという浅ましい考えで、つい「Mさん、いこう。給料日には返すからね」と夜ごと出かけていくのである。
お金持ちは、秋岡さんもいたが、何かとお世話になりごめいわくをかけている先輩には「せめて」「カケ事」‥ポーカーゲームで「とってやろう」といどむのであったが、ことごとく「秋岡さんの勝ち」‥で、少ない軍資金をとられてしまうのである。
前借してまで飲むことができるのは、まわりに「お金」を持っている人がいるからで、皆持っていなければのまないのだが‥とへんな云い訳をしているのも酒のみの「悪いくせ」‥
Mさんの「ドイツ語」は地味に聞こえる。云いかえれば「ていねいな発音」なのだろう。 Mさんは、小さな土器でつくられている人形を集めている。それらの顔の表情が面白く感心してみていると、この「ミニチャー」は「マシュパン細工」や「アメ細工」の「モデル」にするんだよ‥という。スイスに来てから、まわりのことに「カルチャーショック」を受け、ほとんど「何も」出来ずに「ただ毎日をすごしている」私たちにとって、このMさんの言葉には「しげき」を受けた。
「勉強」をするために「スイスへ留学」をしたのであるが、今の自分たちは何も出来ずに「オロオロ」しているだけである。毎日が精一杯「生きている」。
そんなあわただしい「ふんいき」の中で、「しっかりと目標」を持っているMさんは「さすが大人である」
このMさんの「マシュパン細工」はすばらしいものである。小さな人形の顔の表情が「生き生き」として、あどけなさの中に「なにか語りかけてくるような」ものを感じさせる。パテシェリーの技術は、器用さが求められるが、Mさんの作品は「マネ」の出来るものではなかった。芸術家パテシェリのMさんに「たかって」‥のみ食いしている私たちは、ただ、一日の「ウサ」を晴らすために「ビアホール」へ通っていくのであった。
Mさんとは、3ヵ月位一緒に同じアパートで暮らしたが、その間にドイツ、ミュンヘンの「ビール」まつりに出かけたりして、思い出がたくさん出来た。
「ビールまつり」の会場では、「長グツ」の形をした「大ジョッキ」を何杯空けたかわからない‥まわりのドイツ人と歌をうたい、肩をくんで通じない言葉で話し合った。お互いに酔っていると、不思議と言葉が通じるのであった。ソーセージや大根の塩づけを「つまみ」にして「アイン、ツアイ、ドライ」の歌や「グロスト」‥のかけ声で、さらに「ジョッキ」のビールをあけた。
気がついたというか目が覚めたというか、「ボォー」とする頭をふりながらまわりを見ると、自分たちは「車」の中にいた。どのようにして「車」にもどったかまったく記憶になく、4人とも「車」の中で寝込んでしまったようだ。さらに、その「車」が6車線の真ん中に駐車をしていたのだからおどろきである。運転席にいるのは自分であるから、この場所まで車を動かしてきたのはたしかに自分である。酔っぱらい運転をした自分が悪いが、目がさめてくるにして少しづつ記憶がよみがえってきた。
その夜は、ホテルがとれずに「車」の中で寝ることになっていた。全員グロッキー気味ながら、とりあえず「車」まではもどってきて寝ることになった。たしか、その時「この場所は電気が明るくてねむれないのでイマチャン車を動かしてよ‥」と云ったのはMさんであった。云われるまま、この場所に移動してから眠りに入ったのである。
自分たちの「車」の両サイドを、スピードを出して走り抜ける車に恐れを覚え、酔った頭の中が少しづつさめてくるのであった。
パティシェリのMさんは静かな人で、「おつきあい」にはついてくるが、ほとんど目立たない。私と河崎さんの「経済」‥フトコロ具合は、月末には底がつき「今夜は借しておいてください」とMさんに全面的に協力をお願いする。お金がなくなれば出かけるのをやめればよいのだが、Mさんをひっぱりだせばなんとかなるという浅ましい考えで、つい「Mさん、いこう。給料日には返すからね」と夜ごと出かけていくのである。
お金持ちは、秋岡さんもいたが、何かとお世話になりごめいわくをかけている先輩には「せめて」「カケ事」‥ポーカーゲームで「とってやろう」といどむのであったが、ことごとく「秋岡さんの勝ち」‥で、少ない軍資金をとられてしまうのである。
前借してまで飲むことができるのは、まわりに「お金」を持っている人がいるからで、皆持っていなければのまないのだが‥とへんな云い訳をしているのも酒のみの「悪いくせ」‥
Mさんの「ドイツ語」は地味に聞こえる。云いかえれば「ていねいな発音」なのだろう。 Mさんは、小さな土器でつくられている人形を集めている。それらの顔の表情が面白く感心してみていると、この「ミニチャー」は「マシュパン細工」や「アメ細工」の「モデル」にするんだよ‥という。スイスに来てから、まわりのことに「カルチャーショック」を受け、ほとんど「何も」出来ずに「ただ毎日をすごしている」私たちにとって、このMさんの言葉には「しげき」を受けた。
「勉強」をするために「スイスへ留学」をしたのであるが、今の自分たちは何も出来ずに「オロオロ」しているだけである。毎日が精一杯「生きている」。
そんなあわただしい「ふんいき」の中で、「しっかりと目標」を持っているMさんは「さすが大人である」
このMさんの「マシュパン細工」はすばらしいものである。小さな人形の顔の表情が「生き生き」として、あどけなさの中に「なにか語りかけてくるような」ものを感じさせる。パテシェリーの技術は、器用さが求められるが、Mさんの作品は「マネ」の出来るものではなかった。芸術家パテシェリのMさんに「たかって」‥のみ食いしている私たちは、ただ、一日の「ウサ」を晴らすために「ビアホール」へ通っていくのであった。
Mさんとは、3ヵ月位一緒に同じアパートで暮らしたが、その間にドイツ、ミュンヘンの「ビール」まつりに出かけたりして、思い出がたくさん出来た。
「ビールまつり」の会場では、「長グツ」の形をした「大ジョッキ」を何杯空けたかわからない‥まわりのドイツ人と歌をうたい、肩をくんで通じない言葉で話し合った。お互いに酔っていると、不思議と言葉が通じるのであった。ソーセージや大根の塩づけを「つまみ」にして「アイン、ツアイ、ドライ」の歌や「グロスト」‥のかけ声で、さらに「ジョッキ」のビールをあけた。
気がついたというか目が覚めたというか、「ボォー」とする頭をふりながらまわりを見ると、自分たちは「車」の中にいた。どのようにして「車」にもどったかまったく記憶になく、4人とも「車」の中で寝込んでしまったようだ。さらに、その「車」が6車線の真ん中に駐車をしていたのだからおどろきである。運転席にいるのは自分であるから、この場所まで車を動かしてきたのはたしかに自分である。酔っぱらい運転をした自分が悪いが、目がさめてくるにして少しづつ記憶がよみがえってきた。
その夜は、ホテルがとれずに「車」の中で寝ることになっていた。全員グロッキー気味ながら、とりあえず「車」まではもどってきて寝ることになった。たしか、その時「この場所は電気が明るくてねむれないのでイマチャン車を動かしてよ‥」と云ったのはMさんであった。云われるまま、この場所に移動してから眠りに入ったのである。
自分たちの「車」の両サイドを、スピードを出して走り抜ける車に恐れを覚え、酔った頭の中が少しづつさめてくるのであった。

「東京オリンピック」
東京オリンピックは、スイス・ベルン市の喫茶店のテレビをみてコーフンした。だが「休憩時間」にニュースをみるくらいなので、オリンピックの内容は、ほとんどわからなかった。喫茶店内の客が、私たちをみると「ヤパン(Japan)」「トウキョウ」「サムライ」と云って話しかけてくる。なぜかサムライというときは、親ユビを立てて、私たちの方にごっつい手をつき出すのである。店内が「日本」そしてオリンピックを話題にして盛り上がっていることはわかるが、この地方の「スイス、ドイツ語」なのでほとんどわからない。こうなると例の外交的「ニヤッ」と笑って軽く受けながすことにする。
スイスに来てから一番質問されることは、「日本はどこにあるんだい」ということと、「このスイスまでは飛行機でどのくらいかかるのか」ということであった。東京オリンピック開催で、これらがどっと知らされたので、日本の女性が着物を着ていないことや、「サムライ」が町の中にいないので「とまどっている」のは、ビールをのみすぎた赤いハナの「おじさん」ぐらいであった。ソウル市、上海市、東京が土地つづきであって、これをまとめて「日本」と信じているので説明をするには大変なことであった。
東京オリンピックが開催されたといって、日本はまだはるかに遠い国であった。アンカレージを経由してコペンハーゲンで乗り換え、スイスにくるというコースは実に20時間以上かかったのである。この長い時間を説明すると「へぇー遠いんだね」といいながら、その「遠さ」に敬意を表してくれるのである。東京オリンピックで日本が世界中に知られることによって、その後、この「遠さ」が近くなっているのであるから、オリンピック開催は大成功であった。
キッサ店内のテレビのニュースは短く、日本チームの成績はわからなかったが、何かで「金メダル」をとった日本の選手がクローズアップ後、日章旗が中央にあがったときは河崎さんにうながされ、二人で起立して、なぜか胸の上に右手をあてたポーズをさせられたのである。その場の雰囲気からすれば、右手のポーズはよかったのかも知れないが、河崎さんは時にはリーダーとして「日本人」の心意気を強要するのであった。
東京オリンピック後、日本からの外国旅行は簡単に出来るようになり、一般の旅行者にまざって若いコックたちがヨーロッパにやってくるようになった。「外国に行けばなんとかなる」という一種の「ボウケン」は、若い人たちにはたまらない「ロマン」だったのである。
しかし現地では、この「働きたい」といって飛び込んでくる人たちに頭をなやませていたのは、エスワイルさんだけではなかった。ペーパー「労働許可証」「滞在許可証」がないと働くことは出来ず、なんとか「モグリ」で働こうとする人たちに私たちもまき込まれていくのであった。
東京オリンピックのハイライトはそれから4年後、日本に帰国してからドキュメンタリ映画で見ることができた。
東京オリンピックは、スイス・ベルン市の喫茶店のテレビをみてコーフンした。だが「休憩時間」にニュースをみるくらいなので、オリンピックの内容は、ほとんどわからなかった。喫茶店内の客が、私たちをみると「ヤパン(Japan)」「トウキョウ」「サムライ」と云って話しかけてくる。なぜかサムライというときは、親ユビを立てて、私たちの方にごっつい手をつき出すのである。店内が「日本」そしてオリンピックを話題にして盛り上がっていることはわかるが、この地方の「スイス、ドイツ語」なのでほとんどわからない。こうなると例の外交的「ニヤッ」と笑って軽く受けながすことにする。
スイスに来てから一番質問されることは、「日本はどこにあるんだい」ということと、「このスイスまでは飛行機でどのくらいかかるのか」ということであった。東京オリンピック開催で、これらがどっと知らされたので、日本の女性が着物を着ていないことや、「サムライ」が町の中にいないので「とまどっている」のは、ビールをのみすぎた赤いハナの「おじさん」ぐらいであった。ソウル市、上海市、東京が土地つづきであって、これをまとめて「日本」と信じているので説明をするには大変なことであった。
東京オリンピックが開催されたといって、日本はまだはるかに遠い国であった。アンカレージを経由してコペンハーゲンで乗り換え、スイスにくるというコースは実に20時間以上かかったのである。この長い時間を説明すると「へぇー遠いんだね」といいながら、その「遠さ」に敬意を表してくれるのである。東京オリンピックで日本が世界中に知られることによって、その後、この「遠さ」が近くなっているのであるから、オリンピック開催は大成功であった。
キッサ店内のテレビのニュースは短く、日本チームの成績はわからなかったが、何かで「金メダル」をとった日本の選手がクローズアップ後、日章旗が中央にあがったときは河崎さんにうながされ、二人で起立して、なぜか胸の上に右手をあてたポーズをさせられたのである。その場の雰囲気からすれば、右手のポーズはよかったのかも知れないが、河崎さんは時にはリーダーとして「日本人」の心意気を強要するのであった。
東京オリンピック後、日本からの外国旅行は簡単に出来るようになり、一般の旅行者にまざって若いコックたちがヨーロッパにやってくるようになった。「外国に行けばなんとかなる」という一種の「ボウケン」は、若い人たちにはたまらない「ロマン」だったのである。
しかし現地では、この「働きたい」といって飛び込んでくる人たちに頭をなやませていたのは、エスワイルさんだけではなかった。ペーパー「労働許可証」「滞在許可証」がないと働くことは出来ず、なんとか「モグリ」で働こうとする人たちに私たちもまき込まれていくのであった。
東京オリンピックのハイライトはそれから4年後、日本に帰国してからドキュメンタリ映画で見ることができた。

「友の出現」
大きなリュックを背おい、真黒に陽やけした二人の青年は、ほこりにまみれていた。
東京オリンピック後は渡航が自由になり、海外にたくさんの若者が夢を求めて出かけるようになった。この二人の青年もリュックサック以上の大きな夢をもって私たちの前にあらわれたのであった。「アセクサイ」匂いをあたりにまきちらし、始めて逢う私たちに「だきつかんばかり」に近づいてきた。突然あらわれたこの青年たちにとまどいながら、私は「山本先生」からの手紙を思い出した。
「東京の銀座で働いているO君とS君が、料理の勉強で渡欧するので訪ねていったらよろしく」という内容であった。この手紙に対して、私はすぐに返事を出しておいた。
「先生、せっかくの話ですが、スイスでの労働はスイスの政府発行の「労働許可証」がないとダメです。エスワイルさんがご苦労なさって、全日本司厨士協会からの年に2~4人がどうにか受け入れられる状況なので、余分な青年は送らないでください。必ず、協会を通じて渡欧させてください。」
この手紙が届いたであろうと思っているところに、次なる文面の手紙が届いたのが一週間前であった。
「O君とS君は、横浜からフランスの客船に乗って出発しました。約2ヶ月かかると思います。二人は船の中で「クック」‥先生はコックと書かない‥をしながら行くそうです。マルセイユについてから、働けるところをさがしながらヒッチハイクをしたりして語学を勉強しながら行くそうです。たぶん一年ぐらい先になるでしょう。」こんな内容の手紙であった。
この手紙は、たしかに受けとっていたので、やがてこの青年たちがスイスの私たちのところにくるであろうということは覚悟をしていたが、彼らの出現はあまりにも早かったのである。
河崎さんはじめ、他の日本人仲間は働くことの「難しさ」を知っているので、全員が「やっかい者」が来たとばかりに、この全責任が私にあるような態度であった。
困ったなと思いながらも、とりあえず「まぁ、シャワーをあびなよ」「ゆっくりしろよ」といいつつアパートにつれて帰る。「アセクサイ」シャツは、あまりにも匂うので、ビニール袋にまとめさせる。シャワーをあびてすっきりした二人に、河崎さんが冷蔵庫から「ビール」を出して接待をしている。
いきなりとび込んできた二人の青年に対し、めいわく顔をしていた仲間もだんだんにうちとけてきて、私以上に全員が面倒をみているのである。
性格もあるだろうが、「えんりょがち」なO君に対し、S君はいつのまにやらすっかり仲間とうちとけてしまっている。ビールの酔いもあるだろうが「ちょっと休ませて下さい」といいながら、私のベットにもぐりこんで寝込んでしまった。
「イビキ」をかきながら寝てしまった二人のベットのそばで、「明日エスワイルさんに頼んでみよう。若しムリであったら、しばらくの間ここに泊めてやろう」ということに仲間どうしの相談はまとまったのである。
翌日、エスワイルさんと面接をしたのであるが、エスワイルさんの言葉はいつもよりきびしいものであった。「ダメネ、ハタラクコトデキナイ」の一言であった。また勝手に仲間を呼んではいけないとの約束をさせられてしまった。
全員が暗い気分になり、アパートの一室に集まってのんだその夜のビールは、にがい味であった。
困ったときの仲間を助けようとする私たちの気持ちが通じたのか、エスワイルさんはなんとか許可なしで働けるところを3日後には探してきてくれた。
この二人の青年との出会いが、その後の私の人生に大きくかかわってくるのである。
親友として、悪友として‥‥
大きなリュックを背おい、真黒に陽やけした二人の青年は、ほこりにまみれていた。
東京オリンピック後は渡航が自由になり、海外にたくさんの若者が夢を求めて出かけるようになった。この二人の青年もリュックサック以上の大きな夢をもって私たちの前にあらわれたのであった。「アセクサイ」匂いをあたりにまきちらし、始めて逢う私たちに「だきつかんばかり」に近づいてきた。突然あらわれたこの青年たちにとまどいながら、私は「山本先生」からの手紙を思い出した。
「東京の銀座で働いているO君とS君が、料理の勉強で渡欧するので訪ねていったらよろしく」という内容であった。この手紙に対して、私はすぐに返事を出しておいた。
「先生、せっかくの話ですが、スイスでの労働はスイスの政府発行の「労働許可証」がないとダメです。エスワイルさんがご苦労なさって、全日本司厨士協会からの年に2~4人がどうにか受け入れられる状況なので、余分な青年は送らないでください。必ず、協会を通じて渡欧させてください。」
この手紙が届いたであろうと思っているところに、次なる文面の手紙が届いたのが一週間前であった。
「O君とS君は、横浜からフランスの客船に乗って出発しました。約2ヶ月かかると思います。二人は船の中で「クック」‥先生はコックと書かない‥をしながら行くそうです。マルセイユについてから、働けるところをさがしながらヒッチハイクをしたりして語学を勉強しながら行くそうです。たぶん一年ぐらい先になるでしょう。」こんな内容の手紙であった。
この手紙は、たしかに受けとっていたので、やがてこの青年たちがスイスの私たちのところにくるであろうということは覚悟をしていたが、彼らの出現はあまりにも早かったのである。
河崎さんはじめ、他の日本人仲間は働くことの「難しさ」を知っているので、全員が「やっかい者」が来たとばかりに、この全責任が私にあるような態度であった。
困ったなと思いながらも、とりあえず「まぁ、シャワーをあびなよ」「ゆっくりしろよ」といいつつアパートにつれて帰る。「アセクサイ」シャツは、あまりにも匂うので、ビニール袋にまとめさせる。シャワーをあびてすっきりした二人に、河崎さんが冷蔵庫から「ビール」を出して接待をしている。
いきなりとび込んできた二人の青年に対し、めいわく顔をしていた仲間もだんだんにうちとけてきて、私以上に全員が面倒をみているのである。
性格もあるだろうが、「えんりょがち」なO君に対し、S君はいつのまにやらすっかり仲間とうちとけてしまっている。ビールの酔いもあるだろうが「ちょっと休ませて下さい」といいながら、私のベットにもぐりこんで寝込んでしまった。
「イビキ」をかきながら寝てしまった二人のベットのそばで、「明日エスワイルさんに頼んでみよう。若しムリであったら、しばらくの間ここに泊めてやろう」ということに仲間どうしの相談はまとまったのである。
翌日、エスワイルさんと面接をしたのであるが、エスワイルさんの言葉はいつもよりきびしいものであった。「ダメネ、ハタラクコトデキナイ」の一言であった。また勝手に仲間を呼んではいけないとの約束をさせられてしまった。
全員が暗い気分になり、アパートの一室に集まってのんだその夜のビールは、にがい味であった。
困ったときの仲間を助けようとする私たちの気持ちが通じたのか、エスワイルさんはなんとか許可なしで働けるところを3日後には探してきてくれた。
この二人の青年との出会いが、その後の私の人生に大きくかかわってくるのである。
親友として、悪友として‥‥

「後輩」
結局、S君の働く場所はベルン市内のレストランに決まった。
「労働ビザ」がないので、レストランの調理場で働くことは出来ない。仕事をするのではなく、勉強のため見学させてもらうという程度の約束で、給料はないが「食事」と「寝る」ところを与えてもらえるという条件である。エスワイルさんは「少しの小遣いはくれるので」といいながら片目をつむってみせた。
要するん「労働ビザ」がないので働くことはさせられないが、勉強のため調理場に入り、そこで「手伝った」から「小遣い」を出してあげようということであった。親日家のエスワイルさんの頼みで、それを引き受けてくれたこの店のオーナーの特別なはからいであった。
私たちが全日本司厨士協会とスイスのホテル協会の契約で研修生として働くことができるのも、エスワイルさんのお力添えがあってのことで、さらに今回のように勝手に「約束もなし」にやってきたO君とS君のことでもご心配をかけてしまったが、「ダメヨ、コマッタネ‥」といいながらも職場をさがしてくれたのである。 (“エスワイルさん”を参照)
エスワイルさんが身元保証人になり、S君は市内の有名な時計台(チークロック)の近くにあるレストランに決まったことはありがたいことであった。 O君の場合は、3日間ぐらいの遅れはあったが、エスワイルさんが探してきてくれた。決まったところは、ベルン市内ではなく、チューリッヒよりさらにドイツよりにある保養地であった。ホテルの中にあるレストランで働けることになったが、私たちも行ったことのないところであり心配であったが、O君は元気に新天地にむかって出発をしていった。
地図を広げて、ようやく見つけた場所はベルン市内よりずいぶんとはなれているところであったが、仲間のパティシェリのMさんが以前にこの村を通ったことがあり、「よいところだよ」という一言がせめてもの救いであった。O君をベルン駅まで見送り「とびこんできた日本人」の件は、めでたく無事にすんだのである。
ところが事件はおきた。それから三日後のことである。あれ程、エスワイルさんのお骨折りで働く場所をみつけてもらったS君が、店からいなくなってしまったのである。
エスワイルさんの連絡でレストランを訪ねるとシェフは休憩で留守であったが、太ったシェフ、ドゥガード(シェフが休憩の時に留守番をしてくれるコックのこと)が汗をふきながら説明をしてくれた。「昨夜から見えないのだよ、元気に働いていて仕事も出来るし、役に立ついいやつなんだ‥思いあたることがひとつあるんだが、ここに働くウェイターのイタリア人と仲が良く「バカンス」でミラノに帰ったので、もしかすると彼についていったのではないかな‥」
いずれにしろ、勝手に姿を消してしまった「S君」に、エスワイルさんの「ダメネ‥」の言葉を聞きながら、責任を感じていた私は無性に腹が立った。
そして2日後、エスワイルさんから「S君が帰って来た。」という言葉を聞き、彼に逢いにいくと本人は元気に働いていた。私の心配そうな顔を見て「ごめんなさい、ちょっと出かけていました。」といいながら私に近づくと「実はこれに逢ってきたんですよ」と小指を立てた。さらに、胸ポケットから二つに折った「ハガキ」をとりだして見せてくれた。フランス語で書かれた文章の中に「愛」の文字を見つけ「なによ、これは‥」という私の耳元で「ヘ、ヘ、ヘ、トモダチデース」‥とあっさり云う。
聞けば‥いや、聞きたくないが‥説明によれば、日本からマルセイユまでの船の中で○○○○○○ということであった。「コノヤロー、さんざん心配をかけやがってー」どなりつけてやるつもりの言葉がトーンダウンして「うまいことやったなー」とつぶやいた。
「外国にきたら、このくらいの気持ちと行動力がないといけないんだ」と自分自身に納得させた。S君の「先輩、ごめんね」の言葉がやけに元気そうに聞こえた。とんでもない後輩ができたものである。
結局、S君の働く場所はベルン市内のレストランに決まった。
「労働ビザ」がないので、レストランの調理場で働くことは出来ない。仕事をするのではなく、勉強のため見学させてもらうという程度の約束で、給料はないが「食事」と「寝る」ところを与えてもらえるという条件である。エスワイルさんは「少しの小遣いはくれるので」といいながら片目をつむってみせた。
要するん「労働ビザ」がないので働くことはさせられないが、勉強のため調理場に入り、そこで「手伝った」から「小遣い」を出してあげようということであった。親日家のエスワイルさんの頼みで、それを引き受けてくれたこの店のオーナーの特別なはからいであった。
私たちが全日本司厨士協会とスイスのホテル協会の契約で研修生として働くことができるのも、エスワイルさんのお力添えがあってのことで、さらに今回のように勝手に「約束もなし」にやってきたO君とS君のことでもご心配をかけてしまったが、「ダメヨ、コマッタネ‥」といいながらも職場をさがしてくれたのである。 (“エスワイルさん”を参照)
エスワイルさんが身元保証人になり、S君は市内の有名な時計台(チークロック)の近くにあるレストランに決まったことはありがたいことであった。 O君の場合は、3日間ぐらいの遅れはあったが、エスワイルさんが探してきてくれた。決まったところは、ベルン市内ではなく、チューリッヒよりさらにドイツよりにある保養地であった。ホテルの中にあるレストランで働けることになったが、私たちも行ったことのないところであり心配であったが、O君は元気に新天地にむかって出発をしていった。
地図を広げて、ようやく見つけた場所はベルン市内よりずいぶんとはなれているところであったが、仲間のパティシェリのMさんが以前にこの村を通ったことがあり、「よいところだよ」という一言がせめてもの救いであった。O君をベルン駅まで見送り「とびこんできた日本人」の件は、めでたく無事にすんだのである。
ところが事件はおきた。それから三日後のことである。あれ程、エスワイルさんのお骨折りで働く場所をみつけてもらったS君が、店からいなくなってしまったのである。
エスワイルさんの連絡でレストランを訪ねるとシェフは休憩で留守であったが、太ったシェフ、ドゥガード(シェフが休憩の時に留守番をしてくれるコックのこと)が汗をふきながら説明をしてくれた。「昨夜から見えないのだよ、元気に働いていて仕事も出来るし、役に立ついいやつなんだ‥思いあたることがひとつあるんだが、ここに働くウェイターのイタリア人と仲が良く「バカンス」でミラノに帰ったので、もしかすると彼についていったのではないかな‥」
いずれにしろ、勝手に姿を消してしまった「S君」に、エスワイルさんの「ダメネ‥」の言葉を聞きながら、責任を感じていた私は無性に腹が立った。
そして2日後、エスワイルさんから「S君が帰って来た。」という言葉を聞き、彼に逢いにいくと本人は元気に働いていた。私の心配そうな顔を見て「ごめんなさい、ちょっと出かけていました。」といいながら私に近づくと「実はこれに逢ってきたんですよ」と小指を立てた。さらに、胸ポケットから二つに折った「ハガキ」をとりだして見せてくれた。フランス語で書かれた文章の中に「愛」の文字を見つけ「なによ、これは‥」という私の耳元で「ヘ、ヘ、ヘ、トモダチデース」‥とあっさり云う。
聞けば‥いや、聞きたくないが‥説明によれば、日本からマルセイユまでの船の中で○○○○○○ということであった。「コノヤロー、さんざん心配をかけやがってー」どなりつけてやるつもりの言葉がトーンダウンして「うまいことやったなー」とつぶやいた。
「外国にきたら、このくらいの気持ちと行動力がないといけないんだ」と自分自身に納得させた。S君の「先輩、ごめんね」の言葉がやけに元気そうに聞こえた。とんでもない後輩ができたものである。

「I.KA.11(第11回世界料理大会)」
西ドイツのフランクフルトで、4年に1回行われる世界料理大会を見学するため、仲良し4人組(河崎、野中、中谷と私)はそろって休日をとり、電車をのりついでフランクフルトに行く。
この休日がどれたのも、エスワイルさんのおかげであった。それぞれの勤め先であるオーナーに頼んでくれたため、実現したのである。
職場で語学に苦労しながら、フランス料理を勉強している我々は、毎日が精一杯であったために国境をこえてこの大会を見に行くというのは大変にハードなスケジュールの中での旅であった。
職場ではドイツ語を聞きなれていたが、その言葉はスイスドイツ語であって、本場のドイツ語とは異なる。これに気がついたのも新しい経験であった。 ベルン市内では、フランス語を話す人が多く、日常はドイツ語(スイス、ドイツ語)を話していても、こちらがフランス語で話しかけると、答えはフランス語であった。ところが、ドイツに来るとフランス語はほとんど通じなかったのである。 言葉のカベにぶつかりながらの旅であったが、本場のおいしいソーセージやビールには大感激であった。
街の中の古い建物に、戦争で受けた弾痕のあとが生々しく残るのを見て、日本と同じ敗戦国でありながらこの程度ですんだドイツは、負け方がうまかったのであろうと話し合ったり、いや、石の文化と木の文化の違いだろうとビールの酔いも手伝ってか口角泡を飛ばしたのであった。
料理大会の行われた会場は産業会館の大きな建物の中であった。この料理大会の見学をすすめてくれたエスワイルさんの言葉は、半信半疑であった私たちは会場に来てみて初めて、そのスケールの大きさと料理大会のすばらしさが分かったのである。
広い会場に出品されている各国の代表による冷製料理は、今までに見たこともないすばらしいものであった。同じ料理人でありながら、その技術をもたない自分がはずかしいという気持ちよりも、料理の世界の大きさを見せつけられて、ぼうぜんとしてながめるだけであった。
この日のために持ってきたカメラのシャッターを押すことも忘れる程の私たち仲間は、カルチャーショックを受けて、ただふらふらと会場の中を歩きまわったのである。
「I.K.A.11」(世界料理大会第11回の略)のこの大会は、各国から参加をしてくるのでスケールの大きいものであったが、当時の日本からは参加はなかった。このような大会があることすら知らなかったのであるから、私たち仲間のショックは大きかったのである。
会場には、エスワイルさんも来ていた。私たちを見つけると、大きく両手を広げて近づいてきて、「ドウ、スバラシイデショウ」「キレイナモリツケネ」‥etc。エスワイルさんの日本語に、大きくうなづく私たち仲間の手を一人ずつにぎりながらさらに言葉をつづけた。
「ニホン、モ、コノ、コンクール、ニ、デルコトネ、ガンバッテヤローネ」「キミタチガ、ヤルノヨ」。エスワイルさんのからだのわりに大きな手に強くにぎられながらなぜか、自分のからだがあつくなっていくのが感じられた。このエスワイルさんの力強い言葉だけがなぜか私の思い出の中に残っている。
偶然にも帰国してから8年目の1972年、このフランクフルト大会(I.KA.13)に私は日本チームの選手として選ばれて参加することができ「日本チーム」は、初参加で優勝するという幸運を得ることができた。このラッキーな知らせは、エスワイルさんの生前には届かなかったが、ベルンの1日市内の墓地をおとずれた友人が「つたえてきたよ」とベルンの絵ハガキで知らせてきてくれた。
この大会には、その後も日本は参加を続けている。
西ドイツのフランクフルトで、4年に1回行われる世界料理大会を見学するため、仲良し4人組(河崎、野中、中谷と私)はそろって休日をとり、電車をのりついでフランクフルトに行く。
この休日がどれたのも、エスワイルさんのおかげであった。それぞれの勤め先であるオーナーに頼んでくれたため、実現したのである。
職場で語学に苦労しながら、フランス料理を勉強している我々は、毎日が精一杯であったために国境をこえてこの大会を見に行くというのは大変にハードなスケジュールの中での旅であった。
職場ではドイツ語を聞きなれていたが、その言葉はスイスドイツ語であって、本場のドイツ語とは異なる。これに気がついたのも新しい経験であった。 ベルン市内では、フランス語を話す人が多く、日常はドイツ語(スイス、ドイツ語)を話していても、こちらがフランス語で話しかけると、答えはフランス語であった。ところが、ドイツに来るとフランス語はほとんど通じなかったのである。 言葉のカベにぶつかりながらの旅であったが、本場のおいしいソーセージやビールには大感激であった。
街の中の古い建物に、戦争で受けた弾痕のあとが生々しく残るのを見て、日本と同じ敗戦国でありながらこの程度ですんだドイツは、負け方がうまかったのであろうと話し合ったり、いや、石の文化と木の文化の違いだろうとビールの酔いも手伝ってか口角泡を飛ばしたのであった。
料理大会の行われた会場は産業会館の大きな建物の中であった。この料理大会の見学をすすめてくれたエスワイルさんの言葉は、半信半疑であった私たちは会場に来てみて初めて、そのスケールの大きさと料理大会のすばらしさが分かったのである。
広い会場に出品されている各国の代表による冷製料理は、今までに見たこともないすばらしいものであった。同じ料理人でありながら、その技術をもたない自分がはずかしいという気持ちよりも、料理の世界の大きさを見せつけられて、ぼうぜんとしてながめるだけであった。
この日のために持ってきたカメラのシャッターを押すことも忘れる程の私たち仲間は、カルチャーショックを受けて、ただふらふらと会場の中を歩きまわったのである。
「I.K.A.11」(世界料理大会第11回の略)のこの大会は、各国から参加をしてくるのでスケールの大きいものであったが、当時の日本からは参加はなかった。このような大会があることすら知らなかったのであるから、私たち仲間のショックは大きかったのである。
会場には、エスワイルさんも来ていた。私たちを見つけると、大きく両手を広げて近づいてきて、「ドウ、スバラシイデショウ」「キレイナモリツケネ」‥etc。エスワイルさんの日本語に、大きくうなづく私たち仲間の手を一人ずつにぎりながらさらに言葉をつづけた。
「ニホン、モ、コノ、コンクール、ニ、デルコトネ、ガンバッテヤローネ」「キミタチガ、ヤルノヨ」。エスワイルさんのからだのわりに大きな手に強くにぎられながらなぜか、自分のからだがあつくなっていくのが感じられた。このエスワイルさんの力強い言葉だけがなぜか私の思い出の中に残っている。
偶然にも帰国してから8年目の1972年、このフランクフルト大会(I.KA.13)に私は日本チームの選手として選ばれて参加することができ「日本チーム」は、初参加で優勝するという幸運を得ることができた。このラッキーな知らせは、エスワイルさんの生前には届かなかったが、ベルンの1日市内の墓地をおとずれた友人が「つたえてきたよ」とベルンの絵ハガキで知らせてきてくれた。
この大会には、その後も日本は参加を続けている。

世界料理オリンピックとは「WACS世界司厨士協会」加盟国(74ヶ国)により4年に一度ドイツで開催される100年の歴史を誇る料理競技大会。総勢1,500名が競う西洋料理を極める料理競技大会の最高峰です。地方都市チーム、個人競技、ヤングシェフチームなど様々な種目分野での競技が開催され、その中でも選ばれた32ヶ国のHACCP(食品製造の安全管理手法)をマスターしたシェフのみが参加出来る「国別対向ナショナルチーム競技」は、最高に名誉ある競技種目となります。