
「働く後ろ姿」
昔はこうだったと説明すると「そんなの古いよ」「今の世の中じゃありえないことだし興味ないよ」と一方的に聞こうとしない若者に対して伝えておこう、という健気な気持ちも私にはある。しかし、昔の事を書いているとやはり古いし、そんなことはどうでも良い気がする。しかし、忙しいから出来ませんよ、仕事以外に何も自分のことは出来ません…と答える若者にはこのコラムをぜひ読んで参考にしてもらいたい……という私もいいかげんなもので、読もうが、どうしようが別に気にしないで勝手に文字を並べている。
※写真はイメージです
昨年、中学校に行ってわずか一時間の講演をした。一時間はあまりに短く「夢」を語ってくれというのには無理で、話をしたいことが途中切れであった。そこで「この続きは私のホームぺージ」を見て下さい…と言って帰宅すると、その夜のうちに私の思っている夢についてホームページに書き込んだのである。これが思わぬ 反響をよんだ。「面白かった」「夢が近いものだった」「感動した」「次のページを読みたい」などファックスや手紙、また山荘に来るためにホームページを開き読んだたくさんの人から「いいですね…」「楽しいですよ」…という言葉をもらったのである。自分としては生徒達へのメッセージのつもりだったが、生徒達も先生もそして関係のない人たちまでホームページを見ることによって「夢」の読み手になってくれたのである。
私には仲間もいる。昔30年前に働いた仲間たちが「ムッシュウの夢を読みました。私ははじめて知りましたよ」「ムッシュウのプロフィールも私の思っていただけでなく、もっとこのホームページを見て知りました。ムッシュウは何も言わなかったですからね…」という。自分の過去について話をするということはほとんどないし、必要がない。しかし、これ程面 白がられたら、私の過去の話をしてみようという気持ちになってきた。私の青春時代はこんなことがあったんだよ……なんて、ちょっとバカげた話になるかも知れないが、このコラムなら何でも書けるような気がする。
仕事に追われる。仕事に全神経を向ける。これは当り前のことで、この気持ちを持ち続ければ立派に技術を覚えて一人前のコックとして成功する。それには職場で覚えたことをすぐその日のうちにノートに書いておく。まとめて書こうなどということは書かないに等しいので一日一日をしっかりまとめておく、これが大切なのだ。さて、これは分かっているのだが実際に実行することは難しく横になったら一日の疲れが出てきて寝入ってしまうのが毎日であった。
朝の仕事始めは、8時。この時間前後に調理場に入ればよいのだが、私には自分の仕事をする前にやっておくことがある。ストーブに立って仕事をする人を「2番さん」と呼ぶ、副料理長(スーシェフ)なのだが、まわりでこう呼ぶのでこの「2番さん」の使うS、P缶 (塩、胡椒)の穴を一つづつ「つまようじ」で刺して通りをよくして使い易いようにしておく。タオルで磨いてピカピカにする。次にまな板やフライパンをおく台をきれいに掃除しておく。以上のことは「やっておけ」と言われたのではなく、そうすることによって洗い場以外の仕事に近づいているという気分が自分にあったからである。少しでも先輩に近づき声をかけてもらう、仕事の手ほどきをしてもらう…という野心もあったが、自分で出来る事をしておくというのは気分が良いし、楽しかった。
朝早くから夜遅くまで仕事に追われる(私は仕事を自分で追っていると思い込んでいる。)毎日であったが、誰よりも一番早く調理場に行って自分の仕事以外の事をやっておくのは最高の楽しみであった。楽しいことをやるのであるからずっと続くのである。これ程までに調理場に入りびたっている自分だが、一日4~5分間だけ調理場を抜け出すことがある。午前中、しかも10時10分頃「パン」を届けに来る若い女の子がやって来る。パンの入ったバスケットを両手に持って調理場に来ると、このパンを受け取る役目がいつの間にか自分になった。勝手に自分がやったというのが正しいのであるが、青春真っ最中の自分にとって、この可愛い女の子とのちょっとしたかかわりがまた実に楽しいのである。この女の子が調理場から消えると約5~6分後「トイレに行ってきます…」と言って前掛けを外し、裏口の方へ一目散で走っていく。裏口から出た女の子を追っかけて行くのである。追いついてから一言、「ごくろうさん」といって声をかけ、女の子がにこっと笑うと、それにつられ自分も笑い「じゃ又ね」と言ってきびすを返すと、裏口のトイレに向かって走っていく。忙しくて何も出来ない。恋をする暇もない。女の子と話をする暇もない。この「ないづくし」は私にとってはタブーで、わずかの時間は私に青春の血をわかせてくれるのであった。
毎朝、声をかけあって、わずか二人だけでは2~3分もない少ないひと時だが3ヶ月程続いたあと、ジ・エンドになった。ある朝、パンは中年の女性(オバサン)が持ってきた。その日を境に女の子は来なかったのである。「田舎に帰った」ということを聞き出したのは一週間経ってからである。この女の子とは一度「日比谷公園」に休日遊びに行ったのが唯一のデートであった。この時の会話で「アナタの仕事をしている‘ウシロスガタ’が良い」と言われたことが自分でも気に入り、鏡で後ろ姿を見たことがあるが、自分ではあまり良いとは思えなかった。今でもそうだが、洗い物をする時が仕事をしている時で、一番好きなのもこの思い出がある故かも知れない。忙しくとも恋する心は持つことができるのです。
青春を燃やせ!そしてアプローチしろ!人生仕事ばかりではない!自分を大切にしたいものである。 …あっ忘れていた。このデートの時、二人で食べたのが甘納豆であった。わたしの大好物である。
昔はこうだったと説明すると「そんなの古いよ」「今の世の中じゃありえないことだし興味ないよ」と一方的に聞こうとしない若者に対して伝えておこう、という健気な気持ちも私にはある。しかし、昔の事を書いているとやはり古いし、そんなことはどうでも良い気がする。しかし、忙しいから出来ませんよ、仕事以外に何も自分のことは出来ません…と答える若者にはこのコラムをぜひ読んで参考にしてもらいたい……という私もいいかげんなもので、読もうが、どうしようが別に気にしないで勝手に文字を並べている。
※写真はイメージです
昨年、中学校に行ってわずか一時間の講演をした。一時間はあまりに短く「夢」を語ってくれというのには無理で、話をしたいことが途中切れであった。そこで「この続きは私のホームぺージ」を見て下さい…と言って帰宅すると、その夜のうちに私の思っている夢についてホームページに書き込んだのである。これが思わぬ 反響をよんだ。「面白かった」「夢が近いものだった」「感動した」「次のページを読みたい」などファックスや手紙、また山荘に来るためにホームページを開き読んだたくさんの人から「いいですね…」「楽しいですよ」…という言葉をもらったのである。自分としては生徒達へのメッセージのつもりだったが、生徒達も先生もそして関係のない人たちまでホームページを見ることによって「夢」の読み手になってくれたのである。
私には仲間もいる。昔30年前に働いた仲間たちが「ムッシュウの夢を読みました。私ははじめて知りましたよ」「ムッシュウのプロフィールも私の思っていただけでなく、もっとこのホームページを見て知りました。ムッシュウは何も言わなかったですからね…」という。自分の過去について話をするということはほとんどないし、必要がない。しかし、これ程面 白がられたら、私の過去の話をしてみようという気持ちになってきた。私の青春時代はこんなことがあったんだよ……なんて、ちょっとバカげた話になるかも知れないが、このコラムなら何でも書けるような気がする。
仕事に追われる。仕事に全神経を向ける。これは当り前のことで、この気持ちを持ち続ければ立派に技術を覚えて一人前のコックとして成功する。それには職場で覚えたことをすぐその日のうちにノートに書いておく。まとめて書こうなどということは書かないに等しいので一日一日をしっかりまとめておく、これが大切なのだ。さて、これは分かっているのだが実際に実行することは難しく横になったら一日の疲れが出てきて寝入ってしまうのが毎日であった。
朝の仕事始めは、8時。この時間前後に調理場に入ればよいのだが、私には自分の仕事をする前にやっておくことがある。ストーブに立って仕事をする人を「2番さん」と呼ぶ、副料理長(スーシェフ)なのだが、まわりでこう呼ぶのでこの「2番さん」の使うS、P缶 (塩、胡椒)の穴を一つづつ「つまようじ」で刺して通りをよくして使い易いようにしておく。タオルで磨いてピカピカにする。次にまな板やフライパンをおく台をきれいに掃除しておく。以上のことは「やっておけ」と言われたのではなく、そうすることによって洗い場以外の仕事に近づいているという気分が自分にあったからである。少しでも先輩に近づき声をかけてもらう、仕事の手ほどきをしてもらう…という野心もあったが、自分で出来る事をしておくというのは気分が良いし、楽しかった。
朝早くから夜遅くまで仕事に追われる(私は仕事を自分で追っていると思い込んでいる。)毎日であったが、誰よりも一番早く調理場に行って自分の仕事以外の事をやっておくのは最高の楽しみであった。楽しいことをやるのであるからずっと続くのである。これ程までに調理場に入りびたっている自分だが、一日4~5分間だけ調理場を抜け出すことがある。午前中、しかも10時10分頃「パン」を届けに来る若い女の子がやって来る。パンの入ったバスケットを両手に持って調理場に来ると、このパンを受け取る役目がいつの間にか自分になった。勝手に自分がやったというのが正しいのであるが、青春真っ最中の自分にとって、この可愛い女の子とのちょっとしたかかわりがまた実に楽しいのである。この女の子が調理場から消えると約5~6分後「トイレに行ってきます…」と言って前掛けを外し、裏口の方へ一目散で走っていく。裏口から出た女の子を追っかけて行くのである。追いついてから一言、「ごくろうさん」といって声をかけ、女の子がにこっと笑うと、それにつられ自分も笑い「じゃ又ね」と言ってきびすを返すと、裏口のトイレに向かって走っていく。忙しくて何も出来ない。恋をする暇もない。女の子と話をする暇もない。この「ないづくし」は私にとってはタブーで、わずかの時間は私に青春の血をわかせてくれるのであった。
毎朝、声をかけあって、わずか二人だけでは2~3分もない少ないひと時だが3ヶ月程続いたあと、ジ・エンドになった。ある朝、パンは中年の女性(オバサン)が持ってきた。その日を境に女の子は来なかったのである。「田舎に帰った」ということを聞き出したのは一週間経ってからである。この女の子とは一度「日比谷公園」に休日遊びに行ったのが唯一のデートであった。この時の会話で「アナタの仕事をしている‘ウシロスガタ’が良い」と言われたことが自分でも気に入り、鏡で後ろ姿を見たことがあるが、自分ではあまり良いとは思えなかった。今でもそうだが、洗い物をする時が仕事をしている時で、一番好きなのもこの思い出がある故かも知れない。忙しくとも恋する心は持つことができるのです。
青春を燃やせ!そしてアプローチしろ!人生仕事ばかりではない!自分を大切にしたいものである。 …あっ忘れていた。このデートの時、二人で食べたのが甘納豆であった。わたしの大好物である。

「洗い場のご馳走」
今から40年前、中学を卒業して約4ヶ月の夜学への進学であったが、勉強と仕事の両立は難しく、夢やぶれて飛び込んだ料理の世界であったが、もともと食べることは好きなので毎日が楽しかった。洗い場に立った自分の姿は「ゴム」の前掛けをしてダブダブのゴムのズボン、そして黄色い長ぐつ、白いところはコック服と10cm幅の小さなコック帽であった。この姿は他の先輩たちと比べるとまるで違っていて、いかにも洗い場のスタイルであった。名前を呼ばれずに「オイ」とか「ボーヤ」とかそのまま「洗い場」と言われていたが、先輩たちのまわりを飛びまわって洗い物を片付けていた自分は張り切っていた。食堂での従業員の食事は、中位 のどんぶりに七分目ぐらいのごはん(200gぐらい)、おかずはマカロニサラダ(マカロニ30本ぐらい、きゅうり、玉 ねぎ少々、マヨネーズで和えてある。)これにプレスハムがうすいのを2枚、タクワン2切れ、これがある日の昼ごはんのメニューである。15才食べ盛りの自分にとって量 は少ないがこれ程おいしいものはなかった。嬉しかったし、食べられる喜びを感じていた。それにしても腹は減る、洗い場に流れてくるおいしそうな匂いには、今までかいだことのないものであった。とくに肉を焼く匂いはもうたまらない程腹の虫を暴れさせたのである。
洗い場は「ナべ」「フライパン」を洗うところと、お皿を洗うところが別 々になっている。すなわち洗い場の流しが2ケ所ある。お客様がお使いになった皿はレストランと調理場の流し台に戻ってくるので自分の仕事は「ナべ」などの他にこの皿をすばやく洗わないといけないのである。洗い物がたまると先輩が「バカヤロウ」「ハヤクシロー」と怒鳴ってくる。しかしそれを言われたのは最初の2~3日で、こちらが素早くやれば怒られることはなかった。レストランから戻ってくる皿の上には残り物が多かった。とくに肉が残ってくる。しかしこの残り物は食べてはいけないのである。洗い場には3つの器が置いてあって、残り物は決められた器に入れておかなければならない。牛肉の残り物は再び焼いて大きな「寸胴ナべ」の中にほうり込まれる。これはデミグラスソースになる前のフォン(出し汁)を作っているのである。このフォンは毎日漉して翌日又新しい牛の骨や、すじを入れてコトコトと一日中煮込むのである。
ステーキの残り物がこの中に放り込まれる都度「生つば」が出てくる。また、贅沢なお客様は一番うまそうなところを残してくれる。鉄板にのっているので、洗い場に下げられる時はまだ温かいのだ。ついに我慢できずに一切れのステーキを口の中にほうり込む、噛むとジューシーな今までに食べたこともない美味しさである。一度この味を知ってしまうともう止めることはできない。オードヴルからはじまり、魚、肉まで時にはデザートまで食べることができた。これを食べるには絶対に見つからないことである。見つかったら怒鳴りつけられるか、何か物が飛んでくるかわからない。まさに命がけの試食である。いや、腹へり新米コックの夜のディナーなのである。先輩に聞くとこの残り物は買いに来る人があって、売ったお金がコックの「ヘソクリ」になるらしい。確かに勤めるようになって「小遣い」だと言って小銭をもらうことがあったので、この残り物が(お金)になるのは事実であった。残飯はこれをきちんとしなければならない。爪楊枝1本入ってもいけなかったし、タバコの吸いがらが1本でも入ると「値段」が半分になってしまう、と先輩から注意されたので、これにも気をつけることにしていた。ハイエナのように横から肉を食べてしまうことがバレたらもう大変なことになるので見つからずに食べる。いや、「のみこむ」テクニックが身についたのである。洗い場「ナべ」を洗うところに大きな柱がある。ここに立つと先輩たちのところから死角になって見えないのである。 ここのところを通り過ぎるわずか一秒の間に、肉を口の中に入れ噛んでのみ込む、これをやればほとんど見つからないのである。今の人たちがこれを知ったらなんと「バカ」なことを「いやしいことを」…と言うかも知れないが、小学生、中学生と食べ盛りの者が食べれなかったものがようやく肉の香りやステーキの肉牛を見たら「がまん」をしろ…というのは罪であり神様も「食べなさい」と許してくれる声を何度も聞いた気がする。
このディナータイムも慣れるに従って「食べるもの」を選ぶようになってくると「味つけ」にまで興味をもつ。ソースの味は、つくる人によって違ってくるのも分かるようになってくるとその作り方が気になってくる。自分の注意は段々とストーブ前の先輩たちの仕事の動きに目がいくようになる。“ハングリーやろー”が一歩前進したのである。
仕事はますます楽しくなってきた。
今から40年前、中学を卒業して約4ヶ月の夜学への進学であったが、勉強と仕事の両立は難しく、夢やぶれて飛び込んだ料理の世界であったが、もともと食べることは好きなので毎日が楽しかった。洗い場に立った自分の姿は「ゴム」の前掛けをしてダブダブのゴムのズボン、そして黄色い長ぐつ、白いところはコック服と10cm幅の小さなコック帽であった。この姿は他の先輩たちと比べるとまるで違っていて、いかにも洗い場のスタイルであった。名前を呼ばれずに「オイ」とか「ボーヤ」とかそのまま「洗い場」と言われていたが、先輩たちのまわりを飛びまわって洗い物を片付けていた自分は張り切っていた。食堂での従業員の食事は、中位 のどんぶりに七分目ぐらいのごはん(200gぐらい)、おかずはマカロニサラダ(マカロニ30本ぐらい、きゅうり、玉 ねぎ少々、マヨネーズで和えてある。)これにプレスハムがうすいのを2枚、タクワン2切れ、これがある日の昼ごはんのメニューである。15才食べ盛りの自分にとって量 は少ないがこれ程おいしいものはなかった。嬉しかったし、食べられる喜びを感じていた。それにしても腹は減る、洗い場に流れてくるおいしそうな匂いには、今までかいだことのないものであった。とくに肉を焼く匂いはもうたまらない程腹の虫を暴れさせたのである。
洗い場は「ナべ」「フライパン」を洗うところと、お皿を洗うところが別 々になっている。すなわち洗い場の流しが2ケ所ある。お客様がお使いになった皿はレストランと調理場の流し台に戻ってくるので自分の仕事は「ナべ」などの他にこの皿をすばやく洗わないといけないのである。洗い物がたまると先輩が「バカヤロウ」「ハヤクシロー」と怒鳴ってくる。しかしそれを言われたのは最初の2~3日で、こちらが素早くやれば怒られることはなかった。レストランから戻ってくる皿の上には残り物が多かった。とくに肉が残ってくる。しかしこの残り物は食べてはいけないのである。洗い場には3つの器が置いてあって、残り物は決められた器に入れておかなければならない。牛肉の残り物は再び焼いて大きな「寸胴ナべ」の中にほうり込まれる。これはデミグラスソースになる前のフォン(出し汁)を作っているのである。このフォンは毎日漉して翌日又新しい牛の骨や、すじを入れてコトコトと一日中煮込むのである。
ステーキの残り物がこの中に放り込まれる都度「生つば」が出てくる。また、贅沢なお客様は一番うまそうなところを残してくれる。鉄板にのっているので、洗い場に下げられる時はまだ温かいのだ。ついに我慢できずに一切れのステーキを口の中にほうり込む、噛むとジューシーな今までに食べたこともない美味しさである。一度この味を知ってしまうともう止めることはできない。オードヴルからはじまり、魚、肉まで時にはデザートまで食べることができた。これを食べるには絶対に見つからないことである。見つかったら怒鳴りつけられるか、何か物が飛んでくるかわからない。まさに命がけの試食である。いや、腹へり新米コックの夜のディナーなのである。先輩に聞くとこの残り物は買いに来る人があって、売ったお金がコックの「ヘソクリ」になるらしい。確かに勤めるようになって「小遣い」だと言って小銭をもらうことがあったので、この残り物が(お金)になるのは事実であった。残飯はこれをきちんとしなければならない。爪楊枝1本入ってもいけなかったし、タバコの吸いがらが1本でも入ると「値段」が半分になってしまう、と先輩から注意されたので、これにも気をつけることにしていた。ハイエナのように横から肉を食べてしまうことがバレたらもう大変なことになるので見つからずに食べる。いや、「のみこむ」テクニックが身についたのである。洗い場「ナべ」を洗うところに大きな柱がある。ここに立つと先輩たちのところから死角になって見えないのである。 ここのところを通り過ぎるわずか一秒の間に、肉を口の中に入れ噛んでのみ込む、これをやればほとんど見つからないのである。今の人たちがこれを知ったらなんと「バカ」なことを「いやしいことを」…と言うかも知れないが、小学生、中学生と食べ盛りの者が食べれなかったものがようやく肉の香りやステーキの肉牛を見たら「がまん」をしろ…というのは罪であり神様も「食べなさい」と許してくれる声を何度も聞いた気がする。
このディナータイムも慣れるに従って「食べるもの」を選ぶようになってくると「味つけ」にまで興味をもつ。ソースの味は、つくる人によって違ってくるのも分かるようになってくるとその作り方が気になってくる。自分の注意は段々とストーブ前の先輩たちの仕事の動きに目がいくようになる。“ハングリーやろー”が一歩前進したのである。
仕事はますます楽しくなってきた。

「総あがり」
コック見習いには見るもの全てがめずづらしかった。 フォン(出し汁)には魚、とり肉、牛肉と種類があることも少しずつではあるが分かってくる。 このフォンからソースがつくられることも「贅沢なんだな」と感心しながら覚えていった。 今のように調理師学校に行き1年間、または2年間の勉強をしてあらゆる知識を分かった上で調理場に入って来るのとはわけが違うのである。中学校を卒業したばかりの自分には、まったく未知の世界だった。
昭和29年ごろは一般 の食生活はまだ洋風化はされず、田舎育ちの自分にとっては洋食はカレーライスだけが唯一食べた洋食であった。ハヤシライスを食べたのも東京に出てきてからだ。 叔父の家がある小石川で、近所の洋食屋から出前を取り食べさせてくれたのが始めてのデミグラスとの出会いであった。林(ハヤシ)さんが作ったのが最初でこの名前がついたのだということもこの時聞いて、これをずっと信じていたのである。見習いになってから大きな「ナべ」の中にデミグラスがふつふつと煮立っているのを見て「みそかな」……と思いつつ「ナメ」てみて「へえ、これがあのハヤシライスの素か……」ついでに「林さんが作ったハヤシライス」はおいしいですね…と先輩に声をかけたが相手にしてくれなかったのでそれからもずっと「林さんのハヤシライス」を信じていた。18才からフランス語を習うようになり「アッシェ」きざむという言葉を知った時から「アッシェ、ドウ、ブフ、アベック、デュ、リ、」すなわち発音的にアッシェがハヤシに変化していったことを知った。ずいぶんと長い間「林さんのハヤシライス」を信じていたことになる。
調理場での仕事が慣れるにしたがって先輩たちには派閥があることに気がついた。ホテルから来た人たちとアメリカの進駐軍から来た人たちとが反目しあっていたのである。小さないさかいは日常茶飯事でいつ「バクハツ」するかわからなかった。ボイラー係の人と板前がケンカをして、ナイフを持ったボイラー係が逃げる板前を追っかけていったのもその前兆であった。和食の調理場は2階にあったので全館を逃げまわったことになる。止める人もいないので不思議に思いつつどうなるのかと不安な私の前を二人はかけぬ けていった。やがて仲直りをしたのか二人は逃げまわったコースを逆もどりしていった。この時はもうナイフはケースの中に収められ板前の方が持っていたのだから「どうなってるの……」。こんな争いを見ていると、とてつもない職場にいることに気がつきだした。
自分の気持ち次第で良くも悪くもなる職場であった。新しくきた料理長が支配人の頭をフライパンでなぐりつけ「オイ、ヤメタゾ」とどなると2番さんから下の先輩たちが料理長についてぞろぞろと調理場から出ていった。残ったのは派閥の違う進駐軍あがりのコックたちだけが「オレタチ、カンケイナイネ」という顔をして、イモの皮をむいていた。退社届けがフライパンの一振りとは恐れ入ったが、シャレている場合ではない。見習いコックはどちらについていけばよいのか迷っていると支配人が頭を抑えながら「お前は残れ」そして私の耳元で「新しいシェフがくるから心配するな」…ということだった。
次の日には、ヒゲをたくわえた料理長と四人のコックがやってきた。これを入れ替え、または“総あがり”といって、そっくり調理場のメンバーが替わってしまうというのだ。驚いている暇はなく、洗い場は自分のことでいっぱいでメンバーがかわっても「ナべ」が変わらない限り洗い方は一緒である。新しいコックたちとのコミュニケーションは磨き上げた「ナべ」を見たとたん「オメーヤルネー」「イクツダ」「ソ‥カ、ガンバレヨ」と洗い物を誉めてくれたのが最初だった。ヒゲの料理長はフランス語がペラペラであった。自分が何も分からないからペラペラとコラ、ソラ、トレ…と何でもラとレがついているので「すげーや、料理人は外国語が話せなければならないのだ」とまた新しいことに気がつくのであった。フランス語は分からないので、聞き惚れているしか方法がないが、進駐軍からきたコックたちは、やたら英語をしゃべった。イエスとウイとノンとノーが乱れとんでいる。栃木の田舎から出てきて東京の街にショックを受けているのに、さらに仕事と言葉である。
調理場は相変わらず不穏な毎日であったが、洗い場にとってはめずらしい料理をつくっているのを見ることができ、面 白みはあった。ただ、いつ「バクハツ」するか分からぬ戦場にいるようで、「バクダン」のまわりをウロウロしているような気分でいたのは事実だった。 二派に別れている職場は、メニューによってそれをどちらが作るかで決まっているようだ。例えば、オムレツは進駐軍派が受け持っている。気をつけてみるとカツ丼、親子丼、トンカツ、カキフライ、エビフライ、オムライスなど洋食屋さんで作られるものが全て進駐軍派であった。とはいえ、カレーライス、ハヤシライスなどソース類のものは、対ヒゲのシェフ派が作っているようだ。ヒゲのシェフ派は宴会料理をやっていて、今までに見たことのない料理が多かった。冷蔵庫の中にも塩漬けにした豚バラや豚ロース、牛舌などが入っていたり、ソミュール液に漬け込んだ鮭などもあった。いずれも、これに触ったり、のぞいたりすることは御法度で、ヒゲのシェフ派だけの管理になっていた。見せてくれないとなると、見てやれという反逆精神の持ち主でもあるので片っ端からナメまくってみた。確かに塩辛いが、それぞれに味が違っていることに興味をもった。やがて、その一部がオードヴルの皿にのっているとこれもまた感激である。洗い場の特権は、内緒ではあるが、味を見ることが出来ることである。ソミュール液の中に浮かんでいた葉っぱが月桂樹の葉であることに気がついたり、ゴミのようにうかんでいたものがローズマリーであったり、スパイスというものがこうして使用されるのかと思うと、大変な発見をしたようで心臓が飛び出すほどコーフンしたのである。
ところが一ヶ月もしないうちに、ヒゲのシェフ派は「総あがり」をしたのである。原因は何であるか分からないが、ある朝、突然にあれほど大事に仕込まれていた肉や魚や、内臓などの材料が冷蔵庫からひっぱり出されるとギャベジ缶 の中に滅茶苦茶にほうり込まれたのである。すなわち、捨てられたのである。そして「総あがり」の決まった「セリフ」を残して一行は去って行ったのである。わずか一ヶ月とはいえ、一緒に働いたのであるから自分も仲間に入れてくれれば良いものを冷たいものであった。捨てられたものに未練があって、とりだして食べてやれとチャンスを伺ったが、まわりの雰囲気が荒っぽかったので、とてもそこまでの勇気が出ないうちにギャベジ缶 を「豚屋」さんに持って行かれてしまった。
15才の見習いコックは、わずか3ヶ月の間に3人のシェフについたことになる。習ったという仕事ではない仕事は洗い場だけであるから、見ているうちにシェフが変わっていくので、見て盗んで覚えるヒマもない。いえることは、料理人によって仕事の内容が違うことと、「総あがり」という便利な幕引きがあることを知ったのである。
コック見習いには見るもの全てがめずづらしかった。 フォン(出し汁)には魚、とり肉、牛肉と種類があることも少しずつではあるが分かってくる。 このフォンからソースがつくられることも「贅沢なんだな」と感心しながら覚えていった。 今のように調理師学校に行き1年間、または2年間の勉強をしてあらゆる知識を分かった上で調理場に入って来るのとはわけが違うのである。中学校を卒業したばかりの自分には、まったく未知の世界だった。
昭和29年ごろは一般 の食生活はまだ洋風化はされず、田舎育ちの自分にとっては洋食はカレーライスだけが唯一食べた洋食であった。ハヤシライスを食べたのも東京に出てきてからだ。 叔父の家がある小石川で、近所の洋食屋から出前を取り食べさせてくれたのが始めてのデミグラスとの出会いであった。林(ハヤシ)さんが作ったのが最初でこの名前がついたのだということもこの時聞いて、これをずっと信じていたのである。見習いになってから大きな「ナべ」の中にデミグラスがふつふつと煮立っているのを見て「みそかな」……と思いつつ「ナメ」てみて「へえ、これがあのハヤシライスの素か……」ついでに「林さんが作ったハヤシライス」はおいしいですね…と先輩に声をかけたが相手にしてくれなかったのでそれからもずっと「林さんのハヤシライス」を信じていた。18才からフランス語を習うようになり「アッシェ」きざむという言葉を知った時から「アッシェ、ドウ、ブフ、アベック、デュ、リ、」すなわち発音的にアッシェがハヤシに変化していったことを知った。ずいぶんと長い間「林さんのハヤシライス」を信じていたことになる。
調理場での仕事が慣れるにしたがって先輩たちには派閥があることに気がついた。ホテルから来た人たちとアメリカの進駐軍から来た人たちとが反目しあっていたのである。小さないさかいは日常茶飯事でいつ「バクハツ」するかわからなかった。ボイラー係の人と板前がケンカをして、ナイフを持ったボイラー係が逃げる板前を追っかけていったのもその前兆であった。和食の調理場は2階にあったので全館を逃げまわったことになる。止める人もいないので不思議に思いつつどうなるのかと不安な私の前を二人はかけぬ けていった。やがて仲直りをしたのか二人は逃げまわったコースを逆もどりしていった。この時はもうナイフはケースの中に収められ板前の方が持っていたのだから「どうなってるの……」。こんな争いを見ていると、とてつもない職場にいることに気がつきだした。
自分の気持ち次第で良くも悪くもなる職場であった。新しくきた料理長が支配人の頭をフライパンでなぐりつけ「オイ、ヤメタゾ」とどなると2番さんから下の先輩たちが料理長についてぞろぞろと調理場から出ていった。残ったのは派閥の違う進駐軍あがりのコックたちだけが「オレタチ、カンケイナイネ」という顔をして、イモの皮をむいていた。退社届けがフライパンの一振りとは恐れ入ったが、シャレている場合ではない。見習いコックはどちらについていけばよいのか迷っていると支配人が頭を抑えながら「お前は残れ」そして私の耳元で「新しいシェフがくるから心配するな」…ということだった。
次の日には、ヒゲをたくわえた料理長と四人のコックがやってきた。これを入れ替え、または“総あがり”といって、そっくり調理場のメンバーが替わってしまうというのだ。驚いている暇はなく、洗い場は自分のことでいっぱいでメンバーがかわっても「ナべ」が変わらない限り洗い方は一緒である。新しいコックたちとのコミュニケーションは磨き上げた「ナべ」を見たとたん「オメーヤルネー」「イクツダ」「ソ‥カ、ガンバレヨ」と洗い物を誉めてくれたのが最初だった。ヒゲの料理長はフランス語がペラペラであった。自分が何も分からないからペラペラとコラ、ソラ、トレ…と何でもラとレがついているので「すげーや、料理人は外国語が話せなければならないのだ」とまた新しいことに気がつくのであった。フランス語は分からないので、聞き惚れているしか方法がないが、進駐軍からきたコックたちは、やたら英語をしゃべった。イエスとウイとノンとノーが乱れとんでいる。栃木の田舎から出てきて東京の街にショックを受けているのに、さらに仕事と言葉である。
調理場は相変わらず不穏な毎日であったが、洗い場にとってはめずらしい料理をつくっているのを見ることができ、面 白みはあった。ただ、いつ「バクハツ」するか分からぬ戦場にいるようで、「バクダン」のまわりをウロウロしているような気分でいたのは事実だった。 二派に別れている職場は、メニューによってそれをどちらが作るかで決まっているようだ。例えば、オムレツは進駐軍派が受け持っている。気をつけてみるとカツ丼、親子丼、トンカツ、カキフライ、エビフライ、オムライスなど洋食屋さんで作られるものが全て進駐軍派であった。とはいえ、カレーライス、ハヤシライスなどソース類のものは、対ヒゲのシェフ派が作っているようだ。ヒゲのシェフ派は宴会料理をやっていて、今までに見たことのない料理が多かった。冷蔵庫の中にも塩漬けにした豚バラや豚ロース、牛舌などが入っていたり、ソミュール液に漬け込んだ鮭などもあった。いずれも、これに触ったり、のぞいたりすることは御法度で、ヒゲのシェフ派だけの管理になっていた。見せてくれないとなると、見てやれという反逆精神の持ち主でもあるので片っ端からナメまくってみた。確かに塩辛いが、それぞれに味が違っていることに興味をもった。やがて、その一部がオードヴルの皿にのっているとこれもまた感激である。洗い場の特権は、内緒ではあるが、味を見ることが出来ることである。ソミュール液の中に浮かんでいた葉っぱが月桂樹の葉であることに気がついたり、ゴミのようにうかんでいたものがローズマリーであったり、スパイスというものがこうして使用されるのかと思うと、大変な発見をしたようで心臓が飛び出すほどコーフンしたのである。
ところが一ヶ月もしないうちに、ヒゲのシェフ派は「総あがり」をしたのである。原因は何であるか分からないが、ある朝、突然にあれほど大事に仕込まれていた肉や魚や、内臓などの材料が冷蔵庫からひっぱり出されるとギャベジ缶 の中に滅茶苦茶にほうり込まれたのである。すなわち、捨てられたのである。そして「総あがり」の決まった「セリフ」を残して一行は去って行ったのである。わずか一ヶ月とはいえ、一緒に働いたのであるから自分も仲間に入れてくれれば良いものを冷たいものであった。捨てられたものに未練があって、とりだして食べてやれとチャンスを伺ったが、まわりの雰囲気が荒っぽかったので、とてもそこまでの勇気が出ないうちにギャベジ缶 を「豚屋」さんに持って行かれてしまった。
15才の見習いコックは、わずか3ヶ月の間に3人のシェフについたことになる。習ったという仕事ではない仕事は洗い場だけであるから、見ているうちにシェフが変わっていくので、見て盗んで覚えるヒマもない。いえることは、料理人によって仕事の内容が違うことと、「総あがり」という便利な幕引きがあることを知ったのである。

「にんじんのシャトー切り」
昭和29年、この時の私の給料は1,500円だった。この給料の中から野菜などを切るための小さなナイフ(ぺティナイフ)を買った。「自分のナイフを持てば、先輩達のそばに近づいてにんじんのシャトー切り(ステーキなどのつけ合わせについている、フットボールの形をしたもの)に加わることができる」と思ったのである。
洗い場を全部片付けてしまうと、買ったばかりのナイフを持って近づき、横から先輩達の切っているのを見ていると「やってみろ」と2番さんが1ヶのにんじんを私の手の平にのせてくれた。1本のにんじんを3cmぐらいの長さで切り、それを4等分に切ってある。この小さなにんじんをフットボールのような形に切っていくのだ。見ていたので切り方はわかった。さっそく始める。「どうにも先輩達のように流れるような切り方ができないな、やはり難しいものだ……」と思った瞬間、シェフの皮ぐつが私の長ぐつの足元を思いっきり蹴っとばしていた。突然だったので驚いていたが、シェフは一言「できねぇ奴は切るな」とそれだけを言うと、シェフボックスに入って行ってしまった。蹴っとばされた足首が痛いことより、シェフのこの一言は「教えてもらおう」という自分の甘い考えをいっぺんに吹き飛ばしたのである。習っていないことは出来ない、やった事がないのはわからない。これが一般 的な答えだが、その当時の仕事は見ていて覚えるのが当たり前で、誰も「手をとって教えてくれる」ことはなかった。
「総あがり」をした前のシェフたち一行が、自分達の仕込んでいたものを「ブタのえさ」のギャベジ缶 に投げ入れていった行動も決して不思議なことではなかったのである。自分達の仕事を誰にも「見せない、教えない」ということが当然だったのである。
にんじんとの戦いが始まった。 休憩時間に「にんじん」を買ってくると、冷蔵庫の中から先輩の切った「シャトー切り」をポケットに1ヶしのばせてくる。それを「サンプル」にして切る練習である。切っても切ってもうまく切れない……。どうしてもデコボコになる。少ない給料の中から買ってくる「にんじん」には限界があり「さて、困ったなー」と思った時にその丸みが卵に似ていることに気がつく。
卵を左手に持ち右手のナイフで卵の表面 ををこするようにすると「にんじんのシャトー切りの切り方」と同じ動きをする。暇さえあればこの切る練習を続けたのである。やがて卵の皮の表面 がナイフでこすれて卵は割れてしまう。次に新しい卵を買ってきて、同じことを繰り返す。目をつむっていてもその動きが自然にできるようになってきたのは、はじめてから1週間ぐらいたってからであった。今度は「にんじん」を買ってきてためし切りをする。 以前よりナイフの動きはよいがまだ、フットボールの形になるのはムリであった。
にんじんのシャトー切りをする先輩達のそばに近づいていき、調理場のゴミをホーキではきながら「見ないふりをして見る」という神ワザの成果 があったのは、ずいぶんと日にちがかかったのである。先輩達には「リズム」があった。切りながら、身体というか上半身がナイフの動きに合わせて上下に動くのである。このリズムによって、フットボールのような滑らかな曲線に切れていたのである。さっそくこの動きを「マネ」してやってみる。始めは切り方がかえって難しくなってしまった感じがしたが、何回か繰り返すと「シャトー切り」がどうにか見れるようになってきた。その後さらに切るトレーニングは続き、自分自身で「よし」と思うまで何回も何回も繰り返したのである。
いつものように輪になって「にんじんのシャトー切り」をしている先輩のそばに行くと、二番さんが「にんじん」を2ヶ手渡してくれる。震えがくるのを必死にこらえながら切っていく。うまく切れた。次の2ケ目を切り終えると、先輩達の物とは混ぜないで自分の前に置いた。シェフは私の切ったシャトー切りを手に取ると、私を見てから少し笑ってくれたようだが、何も言わずに先輩達の切ったボールの中に2ケを投げ込んでくれたのである。そして、あの「いきなり蹴っとばされる」ことはなかったのである。このシェフともそれから1カ月もたたないうちに別 れたが、「仕事は見て覚えろ」「自分でやるしかない」ということを教えて去って行ったのである。
昭和29年、この時の私の給料は1,500円だった。この給料の中から野菜などを切るための小さなナイフ(ぺティナイフ)を買った。「自分のナイフを持てば、先輩達のそばに近づいてにんじんのシャトー切り(ステーキなどのつけ合わせについている、フットボールの形をしたもの)に加わることができる」と思ったのである。
洗い場を全部片付けてしまうと、買ったばかりのナイフを持って近づき、横から先輩達の切っているのを見ていると「やってみろ」と2番さんが1ヶのにんじんを私の手の平にのせてくれた。1本のにんじんを3cmぐらいの長さで切り、それを4等分に切ってある。この小さなにんじんをフットボールのような形に切っていくのだ。見ていたので切り方はわかった。さっそく始める。「どうにも先輩達のように流れるような切り方ができないな、やはり難しいものだ……」と思った瞬間、シェフの皮ぐつが私の長ぐつの足元を思いっきり蹴っとばしていた。突然だったので驚いていたが、シェフは一言「できねぇ奴は切るな」とそれだけを言うと、シェフボックスに入って行ってしまった。蹴っとばされた足首が痛いことより、シェフのこの一言は「教えてもらおう」という自分の甘い考えをいっぺんに吹き飛ばしたのである。習っていないことは出来ない、やった事がないのはわからない。これが一般 的な答えだが、その当時の仕事は見ていて覚えるのが当たり前で、誰も「手をとって教えてくれる」ことはなかった。
「総あがり」をした前のシェフたち一行が、自分達の仕込んでいたものを「ブタのえさ」のギャベジ缶 に投げ入れていった行動も決して不思議なことではなかったのである。自分達の仕事を誰にも「見せない、教えない」ということが当然だったのである。
にんじんとの戦いが始まった。 休憩時間に「にんじん」を買ってくると、冷蔵庫の中から先輩の切った「シャトー切り」をポケットに1ヶしのばせてくる。それを「サンプル」にして切る練習である。切っても切ってもうまく切れない……。どうしてもデコボコになる。少ない給料の中から買ってくる「にんじん」には限界があり「さて、困ったなー」と思った時にその丸みが卵に似ていることに気がつく。
卵を左手に持ち右手のナイフで卵の表面 ををこするようにすると「にんじんのシャトー切りの切り方」と同じ動きをする。暇さえあればこの切る練習を続けたのである。やがて卵の皮の表面 がナイフでこすれて卵は割れてしまう。次に新しい卵を買ってきて、同じことを繰り返す。目をつむっていてもその動きが自然にできるようになってきたのは、はじめてから1週間ぐらいたってからであった。今度は「にんじん」を買ってきてためし切りをする。 以前よりナイフの動きはよいがまだ、フットボールの形になるのはムリであった。
にんじんのシャトー切りをする先輩達のそばに近づいていき、調理場のゴミをホーキではきながら「見ないふりをして見る」という神ワザの成果 があったのは、ずいぶんと日にちがかかったのである。先輩達には「リズム」があった。切りながら、身体というか上半身がナイフの動きに合わせて上下に動くのである。このリズムによって、フットボールのような滑らかな曲線に切れていたのである。さっそくこの動きを「マネ」してやってみる。始めは切り方がかえって難しくなってしまった感じがしたが、何回か繰り返すと「シャトー切り」がどうにか見れるようになってきた。その後さらに切るトレーニングは続き、自分自身で「よし」と思うまで何回も何回も繰り返したのである。
いつものように輪になって「にんじんのシャトー切り」をしている先輩のそばに行くと、二番さんが「にんじん」を2ヶ手渡してくれる。震えがくるのを必死にこらえながら切っていく。うまく切れた。次の2ケ目を切り終えると、先輩達の物とは混ぜないで自分の前に置いた。シェフは私の切ったシャトー切りを手に取ると、私を見てから少し笑ってくれたようだが、何も言わずに先輩達の切ったボールの中に2ケを投げ込んでくれたのである。そして、あの「いきなり蹴っとばされる」ことはなかったのである。このシェフともそれから1カ月もたたないうちに別 れたが、「仕事は見て覚えろ」「自分でやるしかない」ということを教えて去って行ったのである。

「オムレツ」
仕事を覚えるのは自分がやるしかない。 にんじんのシャトー切りで自信をつけたわけではないが「見て覚える」というのは「やり方」をまず覚え「それはなぜそうなるのか」ということを自分なりに分解をして、技術の組み合わせを理解する。言葉では簡単だが「洗い場」は幸いにして暇である。「じっくり」と先輩の手先を見ることができた。
数多く「オムレツ」の注文が入る。卵、4ヶを割って塩、胡椒をする、「さやばし」で15~16回かき混ぜる。時には20~25回ぐらいかき混ぜている。この違いは「なんだろう」という「ギモン」?がおこる。
まず、それを調べることにする。先輩が割った「卵」の殻を片付けるふりをして「手元」にもってくる。殻には卵白が少し付いているので、これを手の平にのせてみると、「しっかりした玉子」と「だらりとした玉子」であることに気がついたのは、50ヶ程の割られた玉子の殻とのつきあいの結果であった。
「フライパン」の温度を気にしている。「ガス台」にのせたり、はずしたり、いよいよ卵を入れる時には、まずパターの小さな「カタマリ」が入り、そして卵が一気に入る。ハシで始めゆっくり、次に早くかき混ぜると、フライパンはやや「ナナメ」にして向かう側にまとめられたと思ったら、フライパンを持ちあげ右手の甲で「トントン」とたたくと「オムレツ」は生きているような動きで一回転する。この時「アクロバット」をみるようなものだ。なんと「オムレツ」が宙をとんで左手に持った皿の上に落ちてきたのである。
先輩は「ソース」をかけると「野菜の窓口」に持っていき「オムレツシャスール…」とどなった。「うーん」 と目玉がひっくり返る程、その技術に驚いた。 驚くと、それは自分でもやってみたくなる。今なら「オムレツ」の作り方など「料理の本」には親切、丁寧に書かれているので「ある程度」の知識は得ることができるが「なにしろ」昭和29年……そんな料理書があるはずがない。たとえ、あったところで買うお金はない。
ここで気になることがあった。先輩は使用したフライパンを決して「洗い場」には出さないことであった。フライパンを丁寧に布で拭くと、自分の棚の上に大事そうにおく。注文があると、この「フライパン」を取り出して作るのであった。その「ギモン」を聞くことができれば簡単なのであろうが、それを聞く「フンイキ」はないのである。
「総あがり」をして、そして後に入って来たシェフとその仲間たちは無表情であった。近づきがたい「フンイキ」をもった集団は、一ヶ月もたたないうちに風のごとく去っていったので名前もわからない「まぼろしの先輩」たちであったが、その技術は「すばらしく」「マホウ」であり、手品のようであった。
「オムレツ」を作りたい、あのふんわりした美味しそうなオムレツを自分の手で作ってみたいと思う気持ちは大きくふくらんでいったのである。 まず「くるり」と一回転するあの動きを「オムレツ」に与えるのは右手の甲でたたくフライパンにあると気がつくまでに何回、いや何ヶの「オムレツ」を見ただろうか。軽くたたくと中の「オムレツ」が動いているのに気がつくと「朝早くのトレーニング」が始まる。 とはいえ、自分の薄給ではとても卵を買ってそれで「オムレツ」をつくることはできないし、「ガス」を勝手に点火することも許されることではなかった。
「デコボコ」の、普段使用されていない小さなフライパンを見つけ、これで「トレーニング」をすることになった。フライパンの中の「オムレツ」を布でぬらして丸めたものに替えての「フライパン」たたきの練習であった。
はじめは、その「布のかたまり」がフライパンから飛び出たり横になったりして「くるり」と一回転するまでにはいかず、その難しさを思い知らされるのであった。どうしても強くたたくので、手の甲はやがて真っ赤になりシビレてくる。本業の洗い場に支障をもたらしてはいけないので「シビレ」が来るとストップすることにした。「力」ちから…が入り過ぎているうちは「ダメ」で、弱い「力」でやるとうまく回るようになる。そこまでくるのに何日かかったことであろうか……。
軽く「ボン」とたたくと「くるり」とまわる。 それはちょっとしたフライパンとのタイミングであった。イミテーションである「布」のオムレツが回ると、あの宙を飛ぶ「オムレツ」である。 これは割合いと早くマスターすることができた。ようするに、皿でタイミングを計り、フライパンをあげて、「オムレツ」を宙に置き去りにして、これを皿で受け取る。これは面白い程うまく受けることができた。しかし、形のよいオムレツが出来てからのことで、まずフライパンから皿に「オムレツ」を移すのは静かに「かぶせれば」よいというのも練習の中で取り入れた。
先輩の使用する「オムレツ」のフライパンは「こげつかない」。手入れのよくされているフライパンである。 これも、使用されていなかったデコボコのフライパンに布をあてがい、上からたたいてデコボコを直し、「油」でなじませている先輩の「やり方」のまねをして手入れをする。
「くる日」もくる日もフライパンの手入れをする。 手入れは、「フライパン」に熱を加え、「けむり」が出てくると「火」をとめ、使い古しの脂を入れてから全体に脂がつくようにフライパンをまわし、そのあと布で拭き取る。この「フライパン」の手入れは、くり返すことによって「コゲ」つかない「使いやすい」ものになっていくのである。 「ひま」な時間に、捨てられていた「フライパン」を手入れするのを見て、先輩たちは見ていても何も言わなかった。「洗い場」の延長のように見えたのだと思う。
「フライパン」は生き返ったのである。先輩のフライパンのように、「鏡」のように顔が写るように光り輝いている。あとは「焼いてオムレツ」を作ることであった。
そのチャンスは意外と早くきたのである。 「総あがり」でシェフはじめ「コック集団」が辞めると、どうしてもコック不足の空白の日ができる。あとに残った進駐軍からやってきた「洋食屋コック」たちだけでは仕事が追いつかないのである。
メニューはある程度しぼられていても「オムレツ」はポピュラーであり、注文はどんどんと入ってくるのである。 残っているコックたちが自分の仕事で手一杯の有様であったから、「走り使い並み」で「洗い場」の私にも仕事がまわってきた。 「サラダ盛り合わせ」、「オードヴルの盛り合わせ」、「サラダとチーズ」など、皿に盛り付けるだけのものは「やれ」ということで飛びまわって仕事をやった。始めのうちはひとつひとつ見せていたが「おめーはセンスがよいぞ」と誉められ盛りつけると、「料理出し口」に持っていき「へい、サラダデース」「オードヴルデスヨー」と出すと、ウェイターの人が「にっこり」笑って「メルシィーシェフ」とくる。もう一人前になったようなものだ。
「シェフ、オムレツがまだなんだよ、早くしてよ」…と、困った声を出している。ストーブ前には誰もいない。見ている人も誰もいない。自分がやろうとしていることがわかっていない。つい卵を割っていた。フライパンをあたため、バターをのせ「ジューという音」をさせて卵を焼き、向こう側にまとめると「ポンポン」とフライパンをたたく。「オムレツ」は素直にまわってくれた。大事に大事に皿にのせ、トマトソースをかけて「料理出し口」にドキドキしながら出すと、「メルシィーボークーシェフ、サンキュー」と何やらさかんに感謝されているような気分である。
この日を境にして、私は「洗い場」からいきなりサラダ場係りになったのである。 コック不足がもたらした私の出世であった。 「オムレツ」を焼くのも私の仕事となったのである。 「見ていて覚える」を絵に描いたようなもので、「先へ」「先へ」と興味をもって覚えようとしていたことが実を結んだのである。 今、食育のため小学生、中学生など子供たちの前でこの「宙を飛ぶオムレツ」をやってみせると拍手かっさいをあびるのである。
仕事を覚えるのは自分がやるしかない。 にんじんのシャトー切りで自信をつけたわけではないが「見て覚える」というのは「やり方」をまず覚え「それはなぜそうなるのか」ということを自分なりに分解をして、技術の組み合わせを理解する。言葉では簡単だが「洗い場」は幸いにして暇である。「じっくり」と先輩の手先を見ることができた。
数多く「オムレツ」の注文が入る。卵、4ヶを割って塩、胡椒をする、「さやばし」で15~16回かき混ぜる。時には20~25回ぐらいかき混ぜている。この違いは「なんだろう」という「ギモン」?がおこる。
まず、それを調べることにする。先輩が割った「卵」の殻を片付けるふりをして「手元」にもってくる。殻には卵白が少し付いているので、これを手の平にのせてみると、「しっかりした玉子」と「だらりとした玉子」であることに気がついたのは、50ヶ程の割られた玉子の殻とのつきあいの結果であった。
「フライパン」の温度を気にしている。「ガス台」にのせたり、はずしたり、いよいよ卵を入れる時には、まずパターの小さな「カタマリ」が入り、そして卵が一気に入る。ハシで始めゆっくり、次に早くかき混ぜると、フライパンはやや「ナナメ」にして向かう側にまとめられたと思ったら、フライパンを持ちあげ右手の甲で「トントン」とたたくと「オムレツ」は生きているような動きで一回転する。この時「アクロバット」をみるようなものだ。なんと「オムレツ」が宙をとんで左手に持った皿の上に落ちてきたのである。
先輩は「ソース」をかけると「野菜の窓口」に持っていき「オムレツシャスール…」とどなった。「うーん」 と目玉がひっくり返る程、その技術に驚いた。 驚くと、それは自分でもやってみたくなる。今なら「オムレツ」の作り方など「料理の本」には親切、丁寧に書かれているので「ある程度」の知識は得ることができるが「なにしろ」昭和29年……そんな料理書があるはずがない。たとえ、あったところで買うお金はない。
ここで気になることがあった。先輩は使用したフライパンを決して「洗い場」には出さないことであった。フライパンを丁寧に布で拭くと、自分の棚の上に大事そうにおく。注文があると、この「フライパン」を取り出して作るのであった。その「ギモン」を聞くことができれば簡単なのであろうが、それを聞く「フンイキ」はないのである。
「総あがり」をして、そして後に入って来たシェフとその仲間たちは無表情であった。近づきがたい「フンイキ」をもった集団は、一ヶ月もたたないうちに風のごとく去っていったので名前もわからない「まぼろしの先輩」たちであったが、その技術は「すばらしく」「マホウ」であり、手品のようであった。
「オムレツ」を作りたい、あのふんわりした美味しそうなオムレツを自分の手で作ってみたいと思う気持ちは大きくふくらんでいったのである。 まず「くるり」と一回転するあの動きを「オムレツ」に与えるのは右手の甲でたたくフライパンにあると気がつくまでに何回、いや何ヶの「オムレツ」を見ただろうか。軽くたたくと中の「オムレツ」が動いているのに気がつくと「朝早くのトレーニング」が始まる。 とはいえ、自分の薄給ではとても卵を買ってそれで「オムレツ」をつくることはできないし、「ガス」を勝手に点火することも許されることではなかった。
「デコボコ」の、普段使用されていない小さなフライパンを見つけ、これで「トレーニング」をすることになった。フライパンの中の「オムレツ」を布でぬらして丸めたものに替えての「フライパン」たたきの練習であった。
はじめは、その「布のかたまり」がフライパンから飛び出たり横になったりして「くるり」と一回転するまでにはいかず、その難しさを思い知らされるのであった。どうしても強くたたくので、手の甲はやがて真っ赤になりシビレてくる。本業の洗い場に支障をもたらしてはいけないので「シビレ」が来るとストップすることにした。「力」ちから…が入り過ぎているうちは「ダメ」で、弱い「力」でやるとうまく回るようになる。そこまでくるのに何日かかったことであろうか……。
軽く「ボン」とたたくと「くるり」とまわる。 それはちょっとしたフライパンとのタイミングであった。イミテーションである「布」のオムレツが回ると、あの宙を飛ぶ「オムレツ」である。 これは割合いと早くマスターすることができた。ようするに、皿でタイミングを計り、フライパンをあげて、「オムレツ」を宙に置き去りにして、これを皿で受け取る。これは面白い程うまく受けることができた。しかし、形のよいオムレツが出来てからのことで、まずフライパンから皿に「オムレツ」を移すのは静かに「かぶせれば」よいというのも練習の中で取り入れた。
先輩の使用する「オムレツ」のフライパンは「こげつかない」。手入れのよくされているフライパンである。 これも、使用されていなかったデコボコのフライパンに布をあてがい、上からたたいてデコボコを直し、「油」でなじませている先輩の「やり方」のまねをして手入れをする。
「くる日」もくる日もフライパンの手入れをする。 手入れは、「フライパン」に熱を加え、「けむり」が出てくると「火」をとめ、使い古しの脂を入れてから全体に脂がつくようにフライパンをまわし、そのあと布で拭き取る。この「フライパン」の手入れは、くり返すことによって「コゲ」つかない「使いやすい」ものになっていくのである。 「ひま」な時間に、捨てられていた「フライパン」を手入れするのを見て、先輩たちは見ていても何も言わなかった。「洗い場」の延長のように見えたのだと思う。
「フライパン」は生き返ったのである。先輩のフライパンのように、「鏡」のように顔が写るように光り輝いている。あとは「焼いてオムレツ」を作ることであった。
そのチャンスは意外と早くきたのである。 「総あがり」でシェフはじめ「コック集団」が辞めると、どうしてもコック不足の空白の日ができる。あとに残った進駐軍からやってきた「洋食屋コック」たちだけでは仕事が追いつかないのである。
メニューはある程度しぼられていても「オムレツ」はポピュラーであり、注文はどんどんと入ってくるのである。 残っているコックたちが自分の仕事で手一杯の有様であったから、「走り使い並み」で「洗い場」の私にも仕事がまわってきた。 「サラダ盛り合わせ」、「オードヴルの盛り合わせ」、「サラダとチーズ」など、皿に盛り付けるだけのものは「やれ」ということで飛びまわって仕事をやった。始めのうちはひとつひとつ見せていたが「おめーはセンスがよいぞ」と誉められ盛りつけると、「料理出し口」に持っていき「へい、サラダデース」「オードヴルデスヨー」と出すと、ウェイターの人が「にっこり」笑って「メルシィーシェフ」とくる。もう一人前になったようなものだ。
「シェフ、オムレツがまだなんだよ、早くしてよ」…と、困った声を出している。ストーブ前には誰もいない。見ている人も誰もいない。自分がやろうとしていることがわかっていない。つい卵を割っていた。フライパンをあたため、バターをのせ「ジューという音」をさせて卵を焼き、向こう側にまとめると「ポンポン」とフライパンをたたく。「オムレツ」は素直にまわってくれた。大事に大事に皿にのせ、トマトソースをかけて「料理出し口」にドキドキしながら出すと、「メルシィーボークーシェフ、サンキュー」と何やらさかんに感謝されているような気分である。
この日を境にして、私は「洗い場」からいきなりサラダ場係りになったのである。 コック不足がもたらした私の出世であった。 「オムレツ」を焼くのも私の仕事となったのである。 「見ていて覚える」を絵に描いたようなもので、「先へ」「先へ」と興味をもって覚えようとしていたことが実を結んだのである。 今、食育のため小学生、中学生など子供たちの前でこの「宙を飛ぶオムレツ」をやってみせると拍手かっさいをあびるのである。

「仕事のリズム」
仕事の出来る人にはスピードがある。流れるように、そしてリズムがある。Nさんの仕事はまさにそれを感じさせた。 一日も早く仕事を覚えNさんに近づきたいと「ジャマ」にならない程度にそばに行き、その仕事を見ることにした。洗い場をなんとなく卒業した私には、忙しい所を手伝うことが大切で、進駐軍帰りのコックに追われっぱなしの仕事の合間に、Nさんの仕事を少しづつ手伝わせてもらうことができた。
Nさんはこの店の子飼いの人で、この新しく建てられた新館のビルの前、本館といわれる店の時から勤めていて、10年位 のキャリアがある。 新館になって入社してきたフランス料理のシェフはじめ、そのグループの中にも加わらず、また進駐軍帰りの洋食屋グループにも入らず、会社とこのコックたちの間にうまくおさまっている感じの人だった。倉庫などの「カギ」も持っていたり、伝票などもまとめて事務所に届けるのも彼の仕事である。 3回の「総あがり」をしたフランス料理の歴代のシェフとその仲間たちも、わからないことは全てこのNさんに聞くのであった。
シェフが変わっても、「メニュー」はそのまま引き継がれるので、当然全てを知っているNさんが中心になっていたのである。Nさんは感情の起伏もなく、とかく忙しくなると、どなる声が多い調理場の中にあって、静かに、早く、そして適格なる仕事をするので、自然とNさんの近くで仕事をするようになる。
オードブルの盛り付け、スープを運ぶ、サラダの盛り合わせ、ドレッシングを器に入れる。それらを「窓口」 へと運んで行く。飛び回るように動いても、Nさんの仕事にはついていけないのである。この職場で時々おこる珍事の「総あがり」に対しても、Nさんはクールに受けとめていた。慌てる様子もなく、その人たちを見送り、そして新しい人たちを迎え入れているのであった。
Nさんのすごいところは、一度にフライパンを5、6ケ扱うことであった。鶏肉ときのこを炒める。フライパンをオーブンの中に入れると、オープンに入れてあるサーロインの厚焼きを取り出して、焼き脂をスプーンですくって一気にふりかけ、再びオープンに入れる。隣のオープンには仔羊のローストである。ローズマリーとミルポワ(香味野菜)を上からかぶせ、オープンに入れる。別 のフライパンには、マッシュルームと共に、串にさした仔羊の腎臓を焼いている。フライパンがオーブンの中に消えると、ストーブの上にあるシチューの鍋の味をみて、仕上げのブランディを入れる。 それぞれの料理につけ合わせの野菜がついて、次々と仕上がった料理にソースがつけられると、この料理を窓口まで飛ぶような早さで運んで行くのである。
料理が手品師によって「パッパッパッ」とあざやかに出来上がっていく様子は、追い回されて仕事をしている見習いの私にとっては目を見開き、口を開けて「びっくり」の連続であったのだ。少しづつその動きが分かるようになるまで、それからずいぶんと時間がかかるのであるが、それらのスピード、そして流れるような仕事の正確さは、全て経験と「勘」による動作である。これに気づくにはあまりにも自分は無知であり、仕事が未熟であった。
Nさんには、もうひとつ素晴らしい特技があった。テール(牛尾)の残っている、産毛をカミソリで剃り落すのであるが、床屋さんが行なう「ヒゲソリ」そのものであって、実に見ていて気持ちがよい。
仕事にはこのようなリズム感と流れがあることに少しづつ気がつき始めた「15才の見習いコック」だった。
仕事の出来る人にはスピードがある。流れるように、そしてリズムがある。Nさんの仕事はまさにそれを感じさせた。 一日も早く仕事を覚えNさんに近づきたいと「ジャマ」にならない程度にそばに行き、その仕事を見ることにした。洗い場をなんとなく卒業した私には、忙しい所を手伝うことが大切で、進駐軍帰りのコックに追われっぱなしの仕事の合間に、Nさんの仕事を少しづつ手伝わせてもらうことができた。
Nさんはこの店の子飼いの人で、この新しく建てられた新館のビルの前、本館といわれる店の時から勤めていて、10年位 のキャリアがある。 新館になって入社してきたフランス料理のシェフはじめ、そのグループの中にも加わらず、また進駐軍帰りの洋食屋グループにも入らず、会社とこのコックたちの間にうまくおさまっている感じの人だった。倉庫などの「カギ」も持っていたり、伝票などもまとめて事務所に届けるのも彼の仕事である。 3回の「総あがり」をしたフランス料理の歴代のシェフとその仲間たちも、わからないことは全てこのNさんに聞くのであった。
シェフが変わっても、「メニュー」はそのまま引き継がれるので、当然全てを知っているNさんが中心になっていたのである。Nさんは感情の起伏もなく、とかく忙しくなると、どなる声が多い調理場の中にあって、静かに、早く、そして適格なる仕事をするので、自然とNさんの近くで仕事をするようになる。
オードブルの盛り付け、スープを運ぶ、サラダの盛り合わせ、ドレッシングを器に入れる。それらを「窓口」 へと運んで行く。飛び回るように動いても、Nさんの仕事にはついていけないのである。この職場で時々おこる珍事の「総あがり」に対しても、Nさんはクールに受けとめていた。慌てる様子もなく、その人たちを見送り、そして新しい人たちを迎え入れているのであった。
Nさんのすごいところは、一度にフライパンを5、6ケ扱うことであった。鶏肉ときのこを炒める。フライパンをオーブンの中に入れると、オープンに入れてあるサーロインの厚焼きを取り出して、焼き脂をスプーンですくって一気にふりかけ、再びオープンに入れる。隣のオープンには仔羊のローストである。ローズマリーとミルポワ(香味野菜)を上からかぶせ、オープンに入れる。別 のフライパンには、マッシュルームと共に、串にさした仔羊の腎臓を焼いている。フライパンがオーブンの中に消えると、ストーブの上にあるシチューの鍋の味をみて、仕上げのブランディを入れる。 それぞれの料理につけ合わせの野菜がついて、次々と仕上がった料理にソースがつけられると、この料理を窓口まで飛ぶような早さで運んで行くのである。
料理が手品師によって「パッパッパッ」とあざやかに出来上がっていく様子は、追い回されて仕事をしている見習いの私にとっては目を見開き、口を開けて「びっくり」の連続であったのだ。少しづつその動きが分かるようになるまで、それからずいぶんと時間がかかるのであるが、それらのスピード、そして流れるような仕事の正確さは、全て経験と「勘」による動作である。これに気づくにはあまりにも自分は無知であり、仕事が未熟であった。
Nさんには、もうひとつ素晴らしい特技があった。テール(牛尾)の残っている、産毛をカミソリで剃り落すのであるが、床屋さんが行なう「ヒゲソリ」そのものであって、実に見ていて気持ちがよい。
仕事にはこのようなリズム感と流れがあることに少しづつ気がつき始めた「15才の見習いコック」だった。

「カニクリームコロッケ」
進駐軍帰りのコックのつくるクリームコロッケは、すばらしく美味しかった。どうしてアメリカ軍の調理場にいた人が街の中のレストランで働く様になるのか、当時の私には分からなかったが、はっきりとキャンプ帰りのコックであるということは、本人たちも言葉に出していたことなので別 に悪いルートではないことは確かであった。この人たちは非常にスマートさがあり、調理場での会話が英語が多かったのである。
今考えるとおかしい職場であったのだ。片方はフランス語を話すのであったから、このどちらにも所属しない私はただウロたえるだけであった。しかし慣れてくると言葉は分かるもので、「イエス」と「ウィ」が自然に反応して出てくるようになる。
「ブルーテ」は粉とバターをナベに入れ炒めた後、牛乳とブイヨンを入れて「ノリ状」のものをつくる。これがつなぎとなって、あの「コロッケ」ができるのである。カニのコロッケ、チキンコロッケ、ビーフコロッケ、フィッレィコロッケなど、材料が異なるだけで作り方は一緒であった。
白ワインをたっぷり入れて蒸していく。カニコロッケの場合、この時非常に美味しそうな香りがまわりに立ちこめるため、そっと近づいてナベの中をのぞきこんだら思いっきりむせかえったのである。アルコールが蒸発(じょうはつ)しているのだからあたり前だ。ひとつ、ひとつの経験が勉強になる。カニのナベの中にブルーテ(つなぎ)が入り、生クリームと卵黄が最後に加えられる。この時の火加減が難しいようで、真剣さが伝わってくる。プラッターという平らな器に薄く伸ばし冷ましていくのだ。時々、上と下にかき混ぜながら早く冷ますのがコツである。
冷えたコロッケは丸められ、パン粉につける。パン粉も手づくりで、2~3日乾かしたパンを大きめのウラ漉しにこすりつけて作る。手の平が真っ赤になるが、手伝わせてもらえるだけで嬉しいので、文句も言わずニコニコと笑いながら作業する。気持ち良く仕事をしていると、次から次へと新しい仕事を教えてもらえる。「イマイは返事がいいね」と言われることがたびたびあったが、自分としては「はい」という大きな声が唯一の言葉なので、相手に聞こえるようにはっきりとすることが良いようだ。
オーダー(注文)が入ると、カニコロッケは大きな油のナベの中に静かに入れられる。一人前40gが2ケ。カラッと揚げられると、かなりのボリューム感がある。
つけ合わせはコールスロー(キャベツの千切り)だ。パセリが一本、キャベツにはドレッシングがかけられる。 ここまでは手が空いている時は自分がふっとんで行って用意をするようにしている。一ケ所でじっと仕事をしているわけにはいかぬ 走り使いは、とにかく調理場をフルに飛び回っている。床下が油っぽく滑りやすいため、オガクズがまいてある。この上を滑り込みの要領で働くのである。幸い中学3年まで野球部にいたのでこのあたりは一応様になる動作である。
カニコロッケのソースはトマトソースがかけられ、オーダー窓口へと運ばれるのである。テーブルには「トンカツソース」や「ショーユ」、塩、胡椒が置いてあるので、ほとんどのお客様は「トンカツソース」をコロッケにたっぷりとかけて食べるのであった。「なぜ」…というギモンもあったが、尋ねた時に「なにー」とにらまれたので、それからは気にしないようにした。ある時、残ってきたコロッケを食べた時に納得した。「トンカツソース」のかけられたコロッケは大変に美味しかったのである。当時、コロッケ、トンカツ、カレーライス、ハヤシライスなどに、お客様はほとんどトンカツソースをかけていたのである。ジャガイモの入ったコロッケの知識から、ルーをつくり、ブルーテをつくり、生クリーム、卵黄で仕上げるカニクリームコロッケは、私の大好きな仕事になっていくのである。
進駐軍帰りのコックのつくるクリームコロッケは、すばらしく美味しかった。どうしてアメリカ軍の調理場にいた人が街の中のレストランで働く様になるのか、当時の私には分からなかったが、はっきりとキャンプ帰りのコックであるということは、本人たちも言葉に出していたことなので別 に悪いルートではないことは確かであった。この人たちは非常にスマートさがあり、調理場での会話が英語が多かったのである。
今考えるとおかしい職場であったのだ。片方はフランス語を話すのであったから、このどちらにも所属しない私はただウロたえるだけであった。しかし慣れてくると言葉は分かるもので、「イエス」と「ウィ」が自然に反応して出てくるようになる。
「ブルーテ」は粉とバターをナベに入れ炒めた後、牛乳とブイヨンを入れて「ノリ状」のものをつくる。これがつなぎとなって、あの「コロッケ」ができるのである。カニのコロッケ、チキンコロッケ、ビーフコロッケ、フィッレィコロッケなど、材料が異なるだけで作り方は一緒であった。
白ワインをたっぷり入れて蒸していく。カニコロッケの場合、この時非常に美味しそうな香りがまわりに立ちこめるため、そっと近づいてナベの中をのぞきこんだら思いっきりむせかえったのである。アルコールが蒸発(じょうはつ)しているのだからあたり前だ。ひとつ、ひとつの経験が勉強になる。カニのナベの中にブルーテ(つなぎ)が入り、生クリームと卵黄が最後に加えられる。この時の火加減が難しいようで、真剣さが伝わってくる。プラッターという平らな器に薄く伸ばし冷ましていくのだ。時々、上と下にかき混ぜながら早く冷ますのがコツである。
冷えたコロッケは丸められ、パン粉につける。パン粉も手づくりで、2~3日乾かしたパンを大きめのウラ漉しにこすりつけて作る。手の平が真っ赤になるが、手伝わせてもらえるだけで嬉しいので、文句も言わずニコニコと笑いながら作業する。気持ち良く仕事をしていると、次から次へと新しい仕事を教えてもらえる。「イマイは返事がいいね」と言われることがたびたびあったが、自分としては「はい」という大きな声が唯一の言葉なので、相手に聞こえるようにはっきりとすることが良いようだ。
オーダー(注文)が入ると、カニコロッケは大きな油のナベの中に静かに入れられる。一人前40gが2ケ。カラッと揚げられると、かなりのボリューム感がある。
つけ合わせはコールスロー(キャベツの千切り)だ。パセリが一本、キャベツにはドレッシングがかけられる。 ここまでは手が空いている時は自分がふっとんで行って用意をするようにしている。一ケ所でじっと仕事をしているわけにはいかぬ 走り使いは、とにかく調理場をフルに飛び回っている。床下が油っぽく滑りやすいため、オガクズがまいてある。この上を滑り込みの要領で働くのである。幸い中学3年まで野球部にいたのでこのあたりは一応様になる動作である。
カニコロッケのソースはトマトソースがかけられ、オーダー窓口へと運ばれるのである。テーブルには「トンカツソース」や「ショーユ」、塩、胡椒が置いてあるので、ほとんどのお客様は「トンカツソース」をコロッケにたっぷりとかけて食べるのであった。「なぜ」…というギモンもあったが、尋ねた時に「なにー」とにらまれたので、それからは気にしないようにした。ある時、残ってきたコロッケを食べた時に納得した。「トンカツソース」のかけられたコロッケは大変に美味しかったのである。当時、コロッケ、トンカツ、カレーライス、ハヤシライスなどに、お客様はほとんどトンカツソースをかけていたのである。ジャガイモの入ったコロッケの知識から、ルーをつくり、ブルーテをつくり、生クリーム、卵黄で仕上げるカニクリームコロッケは、私の大好きな仕事になっていくのである。

「洋食」
洋食と本格フランス料理が同じ調理場の中で勉強できるのは、まことに幸運であった。 カレーライス、スパゲティ、トンカツ、ハンバーグ、コロッケ、ハヤシライス、親子丼、カツ丼を進駐軍帰りのコックがつくる。
フランス料理は、つけ合わせのジャガイモだけでも難しい名前があって近づきがたい職場に感じた。支配人などとの口争いから、フライパンを振り上げて殴りつけた料理長にはとてもついていけない雰囲気があった。しかし、料理そのものは、今まで見たこともない、また口にしたこともないものばかりであった。宴会の中で焼き上げた骨付きの牛肉は、その大きさもまたオーブンの中で焼き上げる作業で「男の仕事」といったたくましさがあった。
後片付けにまな板を洗う時、小さな肉片があったので、すばやく口の中に入れる。ステーキなどの肉とは異なる味を感じて感激する。 仔羊の肉や鴨などは、味見をするのを「すばやく」「見つからず」にせねばならないので、「じっくり」と味わう余裕はない。「飲み込んで」しまうというのが正しい表現である。
珍しい試食のチャンスが増すにつれ、何となく自分の口には洋食のほうが合うような気がしてくるのは、味見の進歩だったのかもしれない。
両方の調理場の走り使いはスピードが命だ。 与えられた仕事、また自分からやっていることを済ませると、次の仕事は横からいつでも入っていけるようなスペースを探しておく、という離れ業が必要になってくる。ちょっとでもボケーと立っているなんて暇はないのである。仕事場に慣れるにつれ、自分の動きも広範囲になるため、出来上がった料理が窓口から客席に行き、そして食べ終わったあとに、その皿が戻ってくるのも見えるようになってくる。
客の満足感は、この下げられた皿の中に現れている。料理を残す場合、満腹のために「もう食べられません」ということで食べきれない料理が皿の中に残されて洗い場へともどってくる。これは残らないのが一番良いことであるが、お客様のお気持ちは色々である。 この残りものの多いのは高価であり、そして華やかなフランス料理の方が洋食よりはるかに目立つのである。食べ慣れないせいかも知れないが、手のこんだ料理ほど残ってくるのである。残ってくれば当然味見のチャンスであるから食べてみると、洋食に比べてスパイスの香りも強く、ワインの味、バターの味と複雑な味がその皿には残っているのである。 料理の中でも、たっぷりとソースがかけてあるのが残ってくるようだ。残ってくると、料理長がその皿をもってシェフボックスに行き「味見をする」のである。「別 におかしくないのだがな」…と言いながら、皿を洗い場に戻しにくる。その時の顔は、あきらかに不機嫌である。走り使いの自分はシェフのこの雰囲気を一番はやく読み取り、必ず離れた所に避難することにしている。 良い料理なのだろうが、美味しくない。だから残されるのである。口に合わない。そう評価をしてしまえばそれまでだが、洋食と比較すると、まだなじみがなく残す人が多かったのである。
コック見習いの自分としては「おいしくて」「なじみのある」料理が好きであった。その気持ちは、より自分を洋食をつくるコック達の方に近付けたのである。 カレールーやハヤシのもとのデミグラスは難しいが、カツ丼、玉 子丼、親子丼は「タレ」さえ出来ていれば途中までは手伝うことが出来た。「カツ」や「玉 ねぎ」「鶏肉」を入れるだけで、そのあとは煮込んで割った玉子を入れて、軽くフタをして、玉 子がかたまりかけたら素早くご飯の上にのせて、「みつば」をのせて仕上げる。このときの玉 子を煮すぎないことがコツで、全てタイミングの仕事であった。カキフライの揚げ方は、温度とのバランスであった。客席に届けられたカキフライが、丁度「火の通 るとき」という説明を聞いた時は、調理技術の奥の深さを知ったのである。
洋食と本格フランス料理が同じ調理場の中で勉強できるのは、まことに幸運であった。 カレーライス、スパゲティ、トンカツ、ハンバーグ、コロッケ、ハヤシライス、親子丼、カツ丼を進駐軍帰りのコックがつくる。
フランス料理は、つけ合わせのジャガイモだけでも難しい名前があって近づきがたい職場に感じた。支配人などとの口争いから、フライパンを振り上げて殴りつけた料理長にはとてもついていけない雰囲気があった。しかし、料理そのものは、今まで見たこともない、また口にしたこともないものばかりであった。宴会の中で焼き上げた骨付きの牛肉は、その大きさもまたオーブンの中で焼き上げる作業で「男の仕事」といったたくましさがあった。
後片付けにまな板を洗う時、小さな肉片があったので、すばやく口の中に入れる。ステーキなどの肉とは異なる味を感じて感激する。 仔羊の肉や鴨などは、味見をするのを「すばやく」「見つからず」にせねばならないので、「じっくり」と味わう余裕はない。「飲み込んで」しまうというのが正しい表現である。
珍しい試食のチャンスが増すにつれ、何となく自分の口には洋食のほうが合うような気がしてくるのは、味見の進歩だったのかもしれない。
両方の調理場の走り使いはスピードが命だ。 与えられた仕事、また自分からやっていることを済ませると、次の仕事は横からいつでも入っていけるようなスペースを探しておく、という離れ業が必要になってくる。ちょっとでもボケーと立っているなんて暇はないのである。仕事場に慣れるにつれ、自分の動きも広範囲になるため、出来上がった料理が窓口から客席に行き、そして食べ終わったあとに、その皿が戻ってくるのも見えるようになってくる。
客の満足感は、この下げられた皿の中に現れている。料理を残す場合、満腹のために「もう食べられません」ということで食べきれない料理が皿の中に残されて洗い場へともどってくる。これは残らないのが一番良いことであるが、お客様のお気持ちは色々である。 この残りものの多いのは高価であり、そして華やかなフランス料理の方が洋食よりはるかに目立つのである。食べ慣れないせいかも知れないが、手のこんだ料理ほど残ってくるのである。残ってくれば当然味見のチャンスであるから食べてみると、洋食に比べてスパイスの香りも強く、ワインの味、バターの味と複雑な味がその皿には残っているのである。 料理の中でも、たっぷりとソースがかけてあるのが残ってくるようだ。残ってくると、料理長がその皿をもってシェフボックスに行き「味見をする」のである。「別 におかしくないのだがな」…と言いながら、皿を洗い場に戻しにくる。その時の顔は、あきらかに不機嫌である。走り使いの自分はシェフのこの雰囲気を一番はやく読み取り、必ず離れた所に避難することにしている。 良い料理なのだろうが、美味しくない。だから残されるのである。口に合わない。そう評価をしてしまえばそれまでだが、洋食と比較すると、まだなじみがなく残す人が多かったのである。
コック見習いの自分としては「おいしくて」「なじみのある」料理が好きであった。その気持ちは、より自分を洋食をつくるコック達の方に近付けたのである。 カレールーやハヤシのもとのデミグラスは難しいが、カツ丼、玉 子丼、親子丼は「タレ」さえ出来ていれば途中までは手伝うことが出来た。「カツ」や「玉 ねぎ」「鶏肉」を入れるだけで、そのあとは煮込んで割った玉子を入れて、軽くフタをして、玉 子がかたまりかけたら素早くご飯の上にのせて、「みつば」をのせて仕上げる。このときの玉 子を煮すぎないことがコツで、全てタイミングの仕事であった。カキフライの揚げ方は、温度とのバランスであった。客席に届けられたカキフライが、丁度「火の通 るとき」という説明を聞いた時は、調理技術の奥の深さを知ったのである。

「ヘルプ」
その「部屋」は隅田川の「勝どき」橋の近くにあった。中に入ると20名程の人たちが「火ばち」を囲むようにして座りその「火ばち」が灰皿になっていた。次の部屋の奥まったところに「親方」がいてそのまわりにも4~5人の人たちがいたが、そこでは、タバコを吸っていなかった。
「こっちへ入りなさい」という落ちついたやさしい声の主は「親方」の養女であると、Kさんの耳うちがある。
今日はこのKさんが私を「部屋」に連れて来てくれたのである。空いている所に自分で座ぶとんを持っていって座る。
職場での仕事が慣れるにつれ、早く一人前になろうと思うあせりもあった。そんな悩みを職場の先輩Kさんに相談すると、「勉強するには、他の店の仕事を見ることが一番早道である。それには、休日を利用して「部屋」に行き、ここから職場を紹介してもらうのがよい。」というアドバイスがあった。Kさんは「親方」に私を紹介のするために一緒に来てくれたのである。
「部屋」とは当時、料理人の仕事をあっせんする所である。「職業紹介所」すなわち、この部屋には失業者が職を求めてやってくるので私のように勤めていて勉強のために仕事場を紹介してくれというのは「めずらしい」ことであった。
「親方」は、その点を理解してくれ、「部屋」を訪ねると必ず「職場」を紹介してくれた。
電話のベルがなる。いっせいに「親方」の方を見て言葉を待つ「よし五名、丸の内のSだ」名前を呼ばれると、それぞれが荷物を持って部屋から出ていった。部屋の中は再び「タバコ」の煙りと男たちの話し声が続く集会場となった。
二間続きの奥まった「親方」のいる部屋は、禁煙室というわけでもないだろうがこの部屋では、タバコを吸っている人がいないのは「親方」の前でのんびり「タバコ」を吸う雰囲気ではないためだろう。 電話が鳴る都度男たちは「親方」の話し声に耳を傾け少しづつではあったが部屋の中に「隙間」が出ると座る場所が変わっていくのである。
窓側に座っている人が時々窓を開けて「タバコ」の煙りを外に出し新しい空気を入れたりしている。
座っていた「親方」が立ち上がって着物の着替えを始めた。身長もあるので仁王様のように見える。 養子の娘さんに手伝ってもらって紫色の「ユカタ」に着替えるとほとんど上半身だけを動かしてあとは手足をブラブラさせるだけの体操を始める。これが親方の日課になっているようだ。珍しそうに眺めていると「親方」は私を見て手招きをしながら「ボーズ、今日は神田に行ってこい」「和食中心だが多少勉強になるよ」…と片目をつむりながら一言……
「えっ和食なの、自分は洋食屋に行きたいのだがな…」と不満と不安の持った顔を親方に向けるより早く、Kさんが「行ってこい」とそでをつつく。
「行ってこいよ」と言う親方の大きな声に押し出されるように部屋を飛び出したのである。
目的地に着くと駅前の酒場であった。昼は「焼き魚定食」「焼き肉定食」「トンカツ定食」「さしみ」「カキフライ」などがメニューであった。年配の板前さんが作るのを手伝うことになる。一時間もすると焼き肉の「ショーガ焼き」を私に「焼け」と板前からの指示と共に「タレ」につけた肉を手渡される。
使い古された「フライパン」で焼き、付け合わせのキャベツとトマトが盛り付けられた皿にのせる。小口切りの「ネギ」をふりかけタレを上からかけて「一丁あがり」…「よし」と板前はうなづき、「トンカツ」「カキフライ」「ポークソテー」と次から次へと入ってくる。オーダーを私にやらせてくれるのである。
店が駅前にあるせいか客はひっきりなしに入ってくる。板前さんは「なべ」や「さしみ」や「お通 し」づくりで手一杯といった感じで、だんだんと自分のレパートリーが増えていくのであった。その場所には、現在自分の働いているところと異なる仕事があった。「トンカツ」「カキフライ」はとても難しいもので職場ではとうてい自分の仕事ではなく「見ている」だけの作業が、ここヘルプに来た店では「うまさ」「上手さ」には関係なく「やらざるを得ない」のである。狭い調理場、手をのばせばほとんどに手が届き、動き回らなくても仕事ができるのは便利であるが調理場全体が古いのと忙しさのためにあまり「そうじ」をしていないのか、汚れているのが気になったのである。
ガス台では、「なべ物」を作るので、その煮汁がこぼれてまわりがベトベトになっている。「そうじ」は得意の自分としては「手が空く」と、それらの汚れを拭き取ったり、削リ取ったりしていたが、キリがない程の仕事量 となった。
夕方になると店は更に混みだして30席程の店内は満席となり、10時頃までその状態が続く。 ビール、酒のつまみのオーダーが多くなり「さしみ」「ぬた」「焼き魚」「焼き肉」「天ぷら」「お新香」「なべ物」なども板前さんの「そば」について手伝うことになる。「さしみ」を切るのは板前さんだが盛り付けはこちらにまわってくる。「ぬ た」を作るのも一人前の顔をしてうまく「タレ」に混ざったかを板前さんの「マネ」をしてつまんで「味見」をする。混ざっていない「カラシ」にむせたがこれも板前の修業である。
10時30分頃になると、さすがに客足はなくなってきた。この一段落を待っていたように「オーナー」が店に入って来て「茶封筒」に入った「ヘルプ代」を手渡してくれた。 「食べていきな」と板前さんが用意してくれた食事をいただく。残り物ではあるがごちそうである。 「さしみ」や「煮物」もついている。そして小さなグラスではあるがビールまでついている……16才の自分が飲んでは…という断りの気持ちがあったが、あいにく私は14才ぐらいから酒はテスティングを繰り返しているので飲める方である。
「親方」が私を店側に紹介する時18~19才の若い者が行くのでよろしく「フランス料理を勉強しているが和食をひとつ教えてやってくれ…」というようなことが店側に伝わっていたのである。全ての仕事をやらせてくれたのはそのためであった。
この「部屋」通いは、休日を利用して職場が変わっても3年程続いたのである。 あいがたいことに自分がヘルプに行った職場から改めて「名指しで」私を指名してくれたことも長続きした原因である。そして、この「ヘルプ代」がやがて渡欧する費用の一部になったのである。
その「部屋」は隅田川の「勝どき」橋の近くにあった。中に入ると20名程の人たちが「火ばち」を囲むようにして座りその「火ばち」が灰皿になっていた。次の部屋の奥まったところに「親方」がいてそのまわりにも4~5人の人たちがいたが、そこでは、タバコを吸っていなかった。
「こっちへ入りなさい」という落ちついたやさしい声の主は「親方」の養女であると、Kさんの耳うちがある。
今日はこのKさんが私を「部屋」に連れて来てくれたのである。空いている所に自分で座ぶとんを持っていって座る。
職場での仕事が慣れるにつれ、早く一人前になろうと思うあせりもあった。そんな悩みを職場の先輩Kさんに相談すると、「勉強するには、他の店の仕事を見ることが一番早道である。それには、休日を利用して「部屋」に行き、ここから職場を紹介してもらうのがよい。」というアドバイスがあった。Kさんは「親方」に私を紹介のするために一緒に来てくれたのである。
「部屋」とは当時、料理人の仕事をあっせんする所である。「職業紹介所」すなわち、この部屋には失業者が職を求めてやってくるので私のように勤めていて勉強のために仕事場を紹介してくれというのは「めずらしい」ことであった。
「親方」は、その点を理解してくれ、「部屋」を訪ねると必ず「職場」を紹介してくれた。
電話のベルがなる。いっせいに「親方」の方を見て言葉を待つ「よし五名、丸の内のSだ」名前を呼ばれると、それぞれが荷物を持って部屋から出ていった。部屋の中は再び「タバコ」の煙りと男たちの話し声が続く集会場となった。
二間続きの奥まった「親方」のいる部屋は、禁煙室というわけでもないだろうがこの部屋では、タバコを吸っている人がいないのは「親方」の前でのんびり「タバコ」を吸う雰囲気ではないためだろう。 電話が鳴る都度男たちは「親方」の話し声に耳を傾け少しづつではあったが部屋の中に「隙間」が出ると座る場所が変わっていくのである。
窓側に座っている人が時々窓を開けて「タバコ」の煙りを外に出し新しい空気を入れたりしている。
座っていた「親方」が立ち上がって着物の着替えを始めた。身長もあるので仁王様のように見える。 養子の娘さんに手伝ってもらって紫色の「ユカタ」に着替えるとほとんど上半身だけを動かしてあとは手足をブラブラさせるだけの体操を始める。これが親方の日課になっているようだ。珍しそうに眺めていると「親方」は私を見て手招きをしながら「ボーズ、今日は神田に行ってこい」「和食中心だが多少勉強になるよ」…と片目をつむりながら一言……
「えっ和食なの、自分は洋食屋に行きたいのだがな…」と不満と不安の持った顔を親方に向けるより早く、Kさんが「行ってこい」とそでをつつく。
「行ってこいよ」と言う親方の大きな声に押し出されるように部屋を飛び出したのである。
目的地に着くと駅前の酒場であった。昼は「焼き魚定食」「焼き肉定食」「トンカツ定食」「さしみ」「カキフライ」などがメニューであった。年配の板前さんが作るのを手伝うことになる。一時間もすると焼き肉の「ショーガ焼き」を私に「焼け」と板前からの指示と共に「タレ」につけた肉を手渡される。
使い古された「フライパン」で焼き、付け合わせのキャベツとトマトが盛り付けられた皿にのせる。小口切りの「ネギ」をふりかけタレを上からかけて「一丁あがり」…「よし」と板前はうなづき、「トンカツ」「カキフライ」「ポークソテー」と次から次へと入ってくる。オーダーを私にやらせてくれるのである。
店が駅前にあるせいか客はひっきりなしに入ってくる。板前さんは「なべ」や「さしみ」や「お通 し」づくりで手一杯といった感じで、だんだんと自分のレパートリーが増えていくのであった。その場所には、現在自分の働いているところと異なる仕事があった。「トンカツ」「カキフライ」はとても難しいもので職場ではとうてい自分の仕事ではなく「見ている」だけの作業が、ここヘルプに来た店では「うまさ」「上手さ」には関係なく「やらざるを得ない」のである。狭い調理場、手をのばせばほとんどに手が届き、動き回らなくても仕事ができるのは便利であるが調理場全体が古いのと忙しさのためにあまり「そうじ」をしていないのか、汚れているのが気になったのである。
ガス台では、「なべ物」を作るので、その煮汁がこぼれてまわりがベトベトになっている。「そうじ」は得意の自分としては「手が空く」と、それらの汚れを拭き取ったり、削リ取ったりしていたが、キリがない程の仕事量 となった。
夕方になると店は更に混みだして30席程の店内は満席となり、10時頃までその状態が続く。 ビール、酒のつまみのオーダーが多くなり「さしみ」「ぬた」「焼き魚」「焼き肉」「天ぷら」「お新香」「なべ物」なども板前さんの「そば」について手伝うことになる。「さしみ」を切るのは板前さんだが盛り付けはこちらにまわってくる。「ぬ た」を作るのも一人前の顔をしてうまく「タレ」に混ざったかを板前さんの「マネ」をしてつまんで「味見」をする。混ざっていない「カラシ」にむせたがこれも板前の修業である。
10時30分頃になると、さすがに客足はなくなってきた。この一段落を待っていたように「オーナー」が店に入って来て「茶封筒」に入った「ヘルプ代」を手渡してくれた。 「食べていきな」と板前さんが用意してくれた食事をいただく。残り物ではあるがごちそうである。 「さしみ」や「煮物」もついている。そして小さなグラスではあるがビールまでついている……16才の自分が飲んでは…という断りの気持ちがあったが、あいにく私は14才ぐらいから酒はテスティングを繰り返しているので飲める方である。
「親方」が私を店側に紹介する時18~19才の若い者が行くのでよろしく「フランス料理を勉強しているが和食をひとつ教えてやってくれ…」というようなことが店側に伝わっていたのである。全ての仕事をやらせてくれたのはそのためであった。
この「部屋」通いは、休日を利用して職場が変わっても3年程続いたのである。 あいがたいことに自分がヘルプに行った職場から改めて「名指しで」私を指名してくれたことも長続きした原因である。そして、この「ヘルプ代」がやがて渡欧する費用の一部になったのである。

「ビーフシチュー」スペシャルテ の誕生秘話
自分の職場で技術を覚えるのスペシャルテは、当然であるが、料理の知識を早く得るためには別 の店に行くことが早道であった。それを実現させてくれるのは、休日を利用して「部屋」通 いをすることであったが、それには限界があった。
どうしてもこれは覚えたいと思うものは1日や2日で覚えられるものではない。
そこで、19才になると、先輩などの情報をもとに「シチュー」が美味しいという店を何件か選んで食事に行くことにする。それぞれの店に味の特色があり、スパイシーだったり甘かったり、とろみがあったり、さらりとしたソースに出合ったりした。
その中で、これぞ「ビーフシチュー」というのを見つけることができた。
赤坂にあるT軒である。肉のやわらかさ、ソースのとろみ、野菜の甘み、色、ボリューム感、全てが満足のいくものであった。
「仕事させてください」と、いきりなりT軒の裏口から調理場に入り、まな板の前でロース肉を切っていたコックさんに声をかける。
30才くらいのこのコックさんが、料理長と見たが、店から顔を出した女性の方に「マスターを呼んでくれ」と声をかけている。 「何、仕事だって、誰だい」と言いながら、マスターが調理場に入ってきた。「あれ、先程、店に来ていたお客さんじゃないか、どうしたんだい」シチューの皿のソースをパンですくって食べ、なめるようにしていた私をマスターは覚えていてくれた。
この店のシチューの美味しかったこと、是非この技術を覚えたいので私を雇って下さいというようなことを話したのである。
突然、この申し出を聞いたマスターは「こちらにおいで」と店の中に招き入れると、テーブルに座らせ、現在この店には、コックが間にあっていて、次に雇い入れる見習いも待っているくらいなので、君を雇うことは出来ない。残念だが、あきらめてくれということを静かに話してくれたのである。 いきなり飛び込んで「雇って下さい」という方が無理な話で、当然断られて当たり前であった。
さて、ここからが私の自分でも自分が分からない所であって「あきらめない」「必ず何とかなる」流のあたって砕けろ根性が芽を出すのである。 一週間後、私はこの店に行き、同じ「シチュー」を注文してソースをパンですくいとって食べて、もう前回逢って顔を覚えていてくれるマスターに「ちょっと洗い場で皿を洗わせて下さい。1時間でけっこうです。」と頼み込み、苦笑しているマスターの返事をもらう前に裏口から調理場に入って、洗い場の前に立ったのである。皆、あきらめたように笑いあっていたが、店の中もお客さんで混みだしたので、「変なやつ」にかかわっているわけにもいかず、それぞれの仕事にとりかかっている。 洗い場の「おばさん」が前掛けを出してくれるのを深く頭を下げて礼を言い、汗びっしょりになりながら洗い物をしたのである。 シチューの有名なT軒へは、こんないきさつから暇を見つけては洗い場通 いをしたのだった。
その間に、牛バラに塩胡椒をして大きなフライパンで焼き色をつけ、煮込んでいるデミグラスの中に入れ、野菜と共に約2時間半から3時間煮込み、サイバシで刺して、すっと通 るくらいに煮込んだ牛肉を取り出して冷まし、完全に冷めたら冷蔵庫に入れておく。 翌日、冷えて固まった牛肉の余分な脂を取り除き、厚切りにしてソトワールの鍋に並べ、上からたっぷりと赤ワインを注ぎ、フタをして20分程、蒸して肉が柔らかく戻った所に煮詰めたデミグラスを入れて、弱火で静かに20分程煮て、火を止めるのである。オーダーがあると、鍋の中から人数分だけ小さな鍋に移して温め、マデーラ酒、ブランディーを入れて仕上げ、つけ合わせと共に皿に盛って「あつあつのシチュー」はお客さんのテーブルに運ばれるのである。
ここまで見とどけるまで、何日通 ったことであるか、その後、本場フランスへ行き「牛肉の赤ワイン煮」を覚えてきた自分であったが、このT軒の「シチュー」の作り方が一番おいしく出来るし、日本人相手の私たちの仕事はやはり、この洋食の技術を覚えることが大切と気がつくのは、ヨーロッパに勉強に行って、帰国してからであった。
自分の職場で技術を覚えるのスペシャルテは、当然であるが、料理の知識を早く得るためには別 の店に行くことが早道であった。それを実現させてくれるのは、休日を利用して「部屋」通 いをすることであったが、それには限界があった。
どうしてもこれは覚えたいと思うものは1日や2日で覚えられるものではない。
そこで、19才になると、先輩などの情報をもとに「シチュー」が美味しいという店を何件か選んで食事に行くことにする。それぞれの店に味の特色があり、スパイシーだったり甘かったり、とろみがあったり、さらりとしたソースに出合ったりした。
その中で、これぞ「ビーフシチュー」というのを見つけることができた。
赤坂にあるT軒である。肉のやわらかさ、ソースのとろみ、野菜の甘み、色、ボリューム感、全てが満足のいくものであった。
「仕事させてください」と、いきりなりT軒の裏口から調理場に入り、まな板の前でロース肉を切っていたコックさんに声をかける。
30才くらいのこのコックさんが、料理長と見たが、店から顔を出した女性の方に「マスターを呼んでくれ」と声をかけている。 「何、仕事だって、誰だい」と言いながら、マスターが調理場に入ってきた。「あれ、先程、店に来ていたお客さんじゃないか、どうしたんだい」シチューの皿のソースをパンですくって食べ、なめるようにしていた私をマスターは覚えていてくれた。
この店のシチューの美味しかったこと、是非この技術を覚えたいので私を雇って下さいというようなことを話したのである。
突然、この申し出を聞いたマスターは「こちらにおいで」と店の中に招き入れると、テーブルに座らせ、現在この店には、コックが間にあっていて、次に雇い入れる見習いも待っているくらいなので、君を雇うことは出来ない。残念だが、あきらめてくれということを静かに話してくれたのである。 いきなり飛び込んで「雇って下さい」という方が無理な話で、当然断られて当たり前であった。
さて、ここからが私の自分でも自分が分からない所であって「あきらめない」「必ず何とかなる」流のあたって砕けろ根性が芽を出すのである。 一週間後、私はこの店に行き、同じ「シチュー」を注文してソースをパンですくいとって食べて、もう前回逢って顔を覚えていてくれるマスターに「ちょっと洗い場で皿を洗わせて下さい。1時間でけっこうです。」と頼み込み、苦笑しているマスターの返事をもらう前に裏口から調理場に入って、洗い場の前に立ったのである。皆、あきらめたように笑いあっていたが、店の中もお客さんで混みだしたので、「変なやつ」にかかわっているわけにもいかず、それぞれの仕事にとりかかっている。 洗い場の「おばさん」が前掛けを出してくれるのを深く頭を下げて礼を言い、汗びっしょりになりながら洗い物をしたのである。 シチューの有名なT軒へは、こんないきさつから暇を見つけては洗い場通 いをしたのだった。
その間に、牛バラに塩胡椒をして大きなフライパンで焼き色をつけ、煮込んでいるデミグラスの中に入れ、野菜と共に約2時間半から3時間煮込み、サイバシで刺して、すっと通 るくらいに煮込んだ牛肉を取り出して冷まし、完全に冷めたら冷蔵庫に入れておく。 翌日、冷えて固まった牛肉の余分な脂を取り除き、厚切りにしてソトワールの鍋に並べ、上からたっぷりと赤ワインを注ぎ、フタをして20分程、蒸して肉が柔らかく戻った所に煮詰めたデミグラスを入れて、弱火で静かに20分程煮て、火を止めるのである。オーダーがあると、鍋の中から人数分だけ小さな鍋に移して温め、マデーラ酒、ブランディーを入れて仕上げ、つけ合わせと共に皿に盛って「あつあつのシチュー」はお客さんのテーブルに運ばれるのである。
ここまで見とどけるまで、何日通 ったことであるか、その後、本場フランスへ行き「牛肉の赤ワイン煮」を覚えてきた自分であったが、このT軒の「シチュー」の作り方が一番おいしく出来るし、日本人相手の私たちの仕事はやはり、この洋食の技術を覚えることが大切と気がつくのは、ヨーロッパに勉強に行って、帰国してからであった。

幻の「スマトラカレー」
休日を利用しての武者修業は、まわりの人たちに助けられたり、思いがけないハプニングがあったりして、その数は少しずつではあったが増えていった。 ステーキの店、トンカツ屋、天丼屋、肉屋のコロッケ、シチュー、ハヤシライス、オムライスの洋食店などに行くことができた。しかし、修業とはいえそれは見ただけのことであり、本当に技術がわかったわけではなかったが、当時の自分にとっては「何かをしたい」「覚えたい」という欲望のみが先走りしていたのである。18才になると、修業方法が少し変化してきたのは技術への考え方の進歩であったろう。
カレーライスは粉とカレー粉を炒めて作るルーがあり、これに「ブイヨン」を入れて作るのが一般的であり、豚肉や牛肉などそれに玉ねぎなどが加わって煮込まれていく。いわゆるカレーベースのシチューである。
このカレーライスは食べやすく、また日本人には好まれる料理と思っていたが、「スマトラカレー」という看板を見つけ、飛び込んだ「カレーライス専門店」でカルチャーショックを受けたのである。
ソースをごはんの上にかけると「スー」とごはんにしみ込んでいくように「さらっと」している。「スパイス」が強く、カレーの辛さがあり、今までに食べたことのない味覚であった。まわりのサラリーマン風の人たちが、季節も春先なのに「額にびっしり」と汗をかきながら食べているのである。
「おいしい」というより初めての味は「覚えたい」という気持ちを強く後押ししたのである。新橋にあるこの店には、まったく偶然であったが勤めることができたのである。この店で働いているWさんと、仕事(武者修業)を通じての先輩が、知り合いであったため紹介してもらったのである。
この店では「オーダー」のほとんどが、「スマトラカレー」であった。ステーキやグラタンやカキフライ、エビフライ、ポークソテーなどもあったが、戦争のような昼のランチタイムは店の外に行列が出来ている程で、その人気は素晴らしいものであった。今では行列の出来る店というのは「おいしい店」ということでマスコミにも取り上げられ、更にオーバーヒート気味に「ウワサ」が広がっていくが、当時としては行列が出来ているというのは、本当に評判が良いという証しであった。 「口コミ」以外には知られることはなく、何よりもこの新橋周辺の人たちに愛されていたのである。
そのヒミツは「カレーの味」にあった。いつも変わらない「味つけ」が大切であるため、この味をつける時は必ず店の奥さんが調理場に入ってきて仕上げるのである。その時間は調理場の3人いるコックと、洗い場のおばさんまで「休憩タイム」に入るのである。誰もいなくなった調理場で「奥さん」はスマトラカレーの仕上げをするのであった。途中までは、コックがやっているので、そこまでは決められた分量の材料「玉ねぎ」「ジャガイモ」「にんじん」「ロリエ」「とんがらし」「ブイヨン」を鍋に入れてそれぞれの野菜が煮崩れるまで煮込み、その後は「奥さん」の仕事となるわけである。
その「奥さん」の仕事が一番のポイントとなる。「スマトラカレー」のヒミツは他の人には知らされることなく、この店の大事な「宝の味」として守られていたのである。見せてくれないとなると「見たい」という気持ちを持つのは当然であったが、何ぶんにも「味つけ」のガードは固かったのである。
この店での仕事は他の店にはない「フンイキ」があって、すこぶる快適であった。この「ヒミツ」の「スマトラカレー」を除けば自由に仕事をさせてもらったことと、「ウェイトレス」の可愛い女性に囲まれていたので、気分は最高であった。「スマトラカレー」を別にして、調理場の仕事はWさんがチーフ格となり全てを取り仕切っていたが、決して怒らない性格は今までにないコックの姿であった。楽しい職場に約8ヶ月があっという間に過ぎた頃であった。
この「スマトラカレー」の味つけのヒミツのベールが突然にはがされたのである。まったく意図的にそのヒミツを「見せてくれた」のである。その日は、いつものようにコックたちは「休憩」に入っていった。当然私も出ていくことになり、調理場を出ようとした時に、「イマイくん、そこのフライパンをガス台にのせてくれる?」という「奥さん」の言葉に「はい」と言って大きなフライパンをのせると、「サラダオイルをその横スプーンで半分ぐらい入れて」と言う。「はい」と答えて入れると「火をつけて弱火で」・・・火をつけながら奥さんを見ると、小さく切った豚バラ肉に、手に持った塩をふりかけ、粒コショウをムーランから落としてかけている。「この肉をフライパンに入れてね」。奥さんの渡す肉をフライパンに入れると、そのまま「木のシャモジ」でかき混ぜるように命じてから、カレー粉を計っている。そのハカリの目盛りは私から見えるところにあって、はっきりと数字が読み取れたのである。カレー粉をフライパンの中に入れるタイミングを気にしながら奥さんは、「お母さんは、いくつになったの」「田舎に一人でいるの」とか話しかけてきた。問われるままに返事をしながらの作業であったが、煮崩れた野菜の「ナベ」の中に、カレー粉で炒めた豚バラ肉が入るまでの全ての行程を私にさせてくれたのである。「ヒミツ」は、カレー粉と豚バラ肉のいため方にあり、そのカレー粉の色がポイントであった。この仕事は、この日が最初で最後となったのである。次の日からまた休憩をとらされ、その時間の中で奥さんが「スマトラカレー」を仕上げる、といういつものパターンに戻ったのである。
それは自分でも納得がいくと同時に、「スマトラカレー」にはやはりある種の「知らない」業(わざ)があった方が幻の「カレー」として、私のコック人生の「ノート」に残されるような気がしたのであった。
その後、何度となく「スマトラカレー」を作ってみるが、あの店の「スマトラカレー」は作ることができないのである。
今はその店はない。
休日を利用しての武者修業は、まわりの人たちに助けられたり、思いがけないハプニングがあったりして、その数は少しずつではあったが増えていった。 ステーキの店、トンカツ屋、天丼屋、肉屋のコロッケ、シチュー、ハヤシライス、オムライスの洋食店などに行くことができた。しかし、修業とはいえそれは見ただけのことであり、本当に技術がわかったわけではなかったが、当時の自分にとっては「何かをしたい」「覚えたい」という欲望のみが先走りしていたのである。18才になると、修業方法が少し変化してきたのは技術への考え方の進歩であったろう。
カレーライスは粉とカレー粉を炒めて作るルーがあり、これに「ブイヨン」を入れて作るのが一般的であり、豚肉や牛肉などそれに玉ねぎなどが加わって煮込まれていく。いわゆるカレーベースのシチューである。
このカレーライスは食べやすく、また日本人には好まれる料理と思っていたが、「スマトラカレー」という看板を見つけ、飛び込んだ「カレーライス専門店」でカルチャーショックを受けたのである。
ソースをごはんの上にかけると「スー」とごはんにしみ込んでいくように「さらっと」している。「スパイス」が強く、カレーの辛さがあり、今までに食べたことのない味覚であった。まわりのサラリーマン風の人たちが、季節も春先なのに「額にびっしり」と汗をかきながら食べているのである。
「おいしい」というより初めての味は「覚えたい」という気持ちを強く後押ししたのである。新橋にあるこの店には、まったく偶然であったが勤めることができたのである。この店で働いているWさんと、仕事(武者修業)を通じての先輩が、知り合いであったため紹介してもらったのである。
この店では「オーダー」のほとんどが、「スマトラカレー」であった。ステーキやグラタンやカキフライ、エビフライ、ポークソテーなどもあったが、戦争のような昼のランチタイムは店の外に行列が出来ている程で、その人気は素晴らしいものであった。今では行列の出来る店というのは「おいしい店」ということでマスコミにも取り上げられ、更にオーバーヒート気味に「ウワサ」が広がっていくが、当時としては行列が出来ているというのは、本当に評判が良いという証しであった。 「口コミ」以外には知られることはなく、何よりもこの新橋周辺の人たちに愛されていたのである。
そのヒミツは「カレーの味」にあった。いつも変わらない「味つけ」が大切であるため、この味をつける時は必ず店の奥さんが調理場に入ってきて仕上げるのである。その時間は調理場の3人いるコックと、洗い場のおばさんまで「休憩タイム」に入るのである。誰もいなくなった調理場で「奥さん」はスマトラカレーの仕上げをするのであった。途中までは、コックがやっているので、そこまでは決められた分量の材料「玉ねぎ」「ジャガイモ」「にんじん」「ロリエ」「とんがらし」「ブイヨン」を鍋に入れてそれぞれの野菜が煮崩れるまで煮込み、その後は「奥さん」の仕事となるわけである。
その「奥さん」の仕事が一番のポイントとなる。「スマトラカレー」のヒミツは他の人には知らされることなく、この店の大事な「宝の味」として守られていたのである。見せてくれないとなると「見たい」という気持ちを持つのは当然であったが、何ぶんにも「味つけ」のガードは固かったのである。
この店での仕事は他の店にはない「フンイキ」があって、すこぶる快適であった。この「ヒミツ」の「スマトラカレー」を除けば自由に仕事をさせてもらったことと、「ウェイトレス」の可愛い女性に囲まれていたので、気分は最高であった。「スマトラカレー」を別にして、調理場の仕事はWさんがチーフ格となり全てを取り仕切っていたが、決して怒らない性格は今までにないコックの姿であった。楽しい職場に約8ヶ月があっという間に過ぎた頃であった。
この「スマトラカレー」の味つけのヒミツのベールが突然にはがされたのである。まったく意図的にそのヒミツを「見せてくれた」のである。その日は、いつものようにコックたちは「休憩」に入っていった。当然私も出ていくことになり、調理場を出ようとした時に、「イマイくん、そこのフライパンをガス台にのせてくれる?」という「奥さん」の言葉に「はい」と言って大きなフライパンをのせると、「サラダオイルをその横スプーンで半分ぐらい入れて」と言う。「はい」と答えて入れると「火をつけて弱火で」・・・火をつけながら奥さんを見ると、小さく切った豚バラ肉に、手に持った塩をふりかけ、粒コショウをムーランから落としてかけている。「この肉をフライパンに入れてね」。奥さんの渡す肉をフライパンに入れると、そのまま「木のシャモジ」でかき混ぜるように命じてから、カレー粉を計っている。そのハカリの目盛りは私から見えるところにあって、はっきりと数字が読み取れたのである。カレー粉をフライパンの中に入れるタイミングを気にしながら奥さんは、「お母さんは、いくつになったの」「田舎に一人でいるの」とか話しかけてきた。問われるままに返事をしながらの作業であったが、煮崩れた野菜の「ナベ」の中に、カレー粉で炒めた豚バラ肉が入るまでの全ての行程を私にさせてくれたのである。「ヒミツ」は、カレー粉と豚バラ肉のいため方にあり、そのカレー粉の色がポイントであった。この仕事は、この日が最初で最後となったのである。次の日からまた休憩をとらされ、その時間の中で奥さんが「スマトラカレー」を仕上げる、といういつものパターンに戻ったのである。
それは自分でも納得がいくと同時に、「スマトラカレー」にはやはりある種の「知らない」業(わざ)があった方が幻の「カレー」として、私のコック人生の「ノート」に残されるような気がしたのであった。
その後、何度となく「スマトラカレー」を作ってみるが、あの店の「スマトラカレー」は作ることができないのである。
今はその店はない。

「出前」
18才のコックは、蔵前の国技館のとなりにある温泉会館にいた。温泉を楽しむのは昔も今も変わりはない。ゆったりと湯に入り、身体をリラックスさせて食事を楽しむ。大広間があり、個室があり更に高級茶寮があり、レストランがある会館は連日にぎわっていた。
広間には、芸能関係の出演者が入れ替わりやってきて、有名な歌手も顔をみることができた。温泉には、となりの国技館から相撲とりがやってくるので、風呂の中で裸のつきあいになる。大きな身体は洗い場の鏡には一部しか入らず、自分たちの身体の向こうに片足だけが写っているのも面白いバランスであった。
休憩時間に塀を乗り越えて国技館に入り、相撲学校の「ケイコ」を見るのも楽しみであった。となり同志ということで守衛も見てみぬふりをしてくれるので、国技館で行われる相撲の他、プロレスやボクシングを見ることも出来た。
今ではそんなことはとても出来ないことだろうが、当時は万事が「おおざっぱ」であった。コック服を着たまま通路から試合が見ていられるのであるから、この職場での仕事ぶりは実に余裕があり、のんびりとした所があった。しかし、国技館へ出かけるのは「塀」をのりこえるばかりではなく、出前を届けることもあったのでこれも楽しみのひとつであった。
本場所では、さすがに出前をとることはなかったが、大関時代の栃錦関に、「ステーキ定食」を運んだことがある。4人前の切り身ということで1kgのロース肉を焼き、鉄板にのせて「ジュー」という焼き音をたてながら走って届けたことがある。2種類のソースを添えていったが、大関は両方をかけて食べていた。
さすがに、プロレスとボクシングの選手には、出前はなかったが、世界選手権も通路で見ることができた。
大男のプロレスラーが、リング場の中以外であばれるといけないので、若い者が二人がかりでもつ「くさり」につながれて引っ張られるようにして退場してきたが、支度部屋に入ってきたら自分でその「くさり」を首から外したのを見た時は、「あれ?ー」って拍子抜けしたことを思い出したが、おおいに楽しませてくれた舞台から降りればこれでよいのだろう。その後、国技館は両国へ移っていった。
我が愛した職場は今はない。
18才のコックは、蔵前の国技館のとなりにある温泉会館にいた。温泉を楽しむのは昔も今も変わりはない。ゆったりと湯に入り、身体をリラックスさせて食事を楽しむ。大広間があり、個室があり更に高級茶寮があり、レストランがある会館は連日にぎわっていた。
広間には、芸能関係の出演者が入れ替わりやってきて、有名な歌手も顔をみることができた。温泉には、となりの国技館から相撲とりがやってくるので、風呂の中で裸のつきあいになる。大きな身体は洗い場の鏡には一部しか入らず、自分たちの身体の向こうに片足だけが写っているのも面白いバランスであった。
休憩時間に塀を乗り越えて国技館に入り、相撲学校の「ケイコ」を見るのも楽しみであった。となり同志ということで守衛も見てみぬふりをしてくれるので、国技館で行われる相撲の他、プロレスやボクシングを見ることも出来た。
今ではそんなことはとても出来ないことだろうが、当時は万事が「おおざっぱ」であった。コック服を着たまま通路から試合が見ていられるのであるから、この職場での仕事ぶりは実に余裕があり、のんびりとした所があった。しかし、国技館へ出かけるのは「塀」をのりこえるばかりではなく、出前を届けることもあったのでこれも楽しみのひとつであった。
本場所では、さすがに出前をとることはなかったが、大関時代の栃錦関に、「ステーキ定食」を運んだことがある。4人前の切り身ということで1kgのロース肉を焼き、鉄板にのせて「ジュー」という焼き音をたてながら走って届けたことがある。2種類のソースを添えていったが、大関は両方をかけて食べていた。
さすがに、プロレスとボクシングの選手には、出前はなかったが、世界選手権も通路で見ることができた。
大男のプロレスラーが、リング場の中以外であばれるといけないので、若い者が二人がかりでもつ「くさり」につながれて引っ張られるようにして退場してきたが、支度部屋に入ってきたら自分でその「くさり」を首から外したのを見た時は、「あれ?ー」って拍子抜けしたことを思い出したが、おおいに楽しませてくれた舞台から降りればこれでよいのだろう。その後、国技館は両国へ移っていった。
我が愛した職場は今はない。