
夢・・・それは小さなことであっても、それの持つエネルギーは大きく膨らむものなのである
19才で恋人ができる。やがて結婚相手としての夢は「大きな農家の娘さん」が第一条件であった。偶然にもその条件が満たされた。「大きな農家の娘」であることを知った時は、神の存在を知ったのである。なぜ農家にこだわったのかというと、戦後食べ物がなく、食べられなかった時代を生きた者だけが感じる「食べ物へ」の、特に白いごはんを食べたいという「気持ち」がこの夢を膨らませたのである。この女性が今の妻である。
その後ヨーロッパに渡り、修行して帰国する約5年間、結婚を待たせたのであるから罪深きものであったのかもしれない。だが結婚式は藤沢の教会で5年後に行い、神に誓い感謝したのである。彼女に助けられ、渡欧費用が貯まるとコックの団体である全日本司厨士協会の青年司厨士派遣のメンバーとして選んでいただき、早い時期に渡欧できたのは幸運であった。
外国で勉強をしたいという夢は、いくつかのハードルを越えねばならぬ 困難もあったが、周りの人たちに助けられ実現したのである。約5年間、語学の勉強をしていたつもりであったが、フランス語を話せるまでになるということは大変なことであり、日本にいての語学の進歩はほとんど無いに等しいことであった。
ドイツ語を主として話すスイスのベルン市が最初の目的地であった。この地区は、スイス・ドイツ語を話すから正統のドイツ語ではない。ノドに絡まってツバと一緒に口から飛び出す発音は、日本人の私たちにはほとんど通 じなかったのである。スイス人の知識人は3ヶ国語を話すといわれるように、私たちにはフランス語そして英語で話かけてくれるが、所詮私たちには通 じないので、両手を大きく広げ「お手上げ」とあきらめてしまう相手に「もう一度、もう一度お願いします‥‥」と食い下がっていった。仕事の合間に語学の学校に通 う。個人レッスンだと費用が高いので日本人の仲間4人で習いに行く。仕事で疲れ、そして精神的にクタクタになっても、このレッスンは一年間は続けることが出来た。それは「話をしたい、自分の思っていることを言葉に出して相手に伝えたい」という「願い」が奮い立たせたのである。
2年目になると、職場がジュネーブ・レマン湖畔・コペの町のホテルに移る。周りに世界の富豪や国王の別荘があり、いくらか暗いイメージのあるベルンから明るい所に来たという感じがした。言葉も通 じるようになってきたのも、気持ちをリラックスさせた事が良かったのかも知れない。精神的に楽になると、仕事へのさらなる向上の夢は広がり、料理から菓子、パン、そしてワインの勉強へと進んでいくのであった。 職場での契約をしながら他の店へ行って勉強してくるのを認めてくれた、コペのホテルのご主人「ゴットローさん」には頭が下がる思いで今でも深く感謝している。短期間であったが、菓子店、そしてパン屋のご主人たちにもずいぶんと可愛がってもらい、仕事を教えていただいた。
特に当時、フランスでは働くことは出来なかったため、フランス・ジュラ地方のアルボワにあるホテル「ドゥ・パリ」のご主人「ジュネー」さんには、約一年近くに渡ってお世話になったのである。1964年度のワインのMOF(チャンピオン)である「ジュネーさん」は、暇を見ては車に乗せてワイン畑やワイン生産者のカーブ(倉庫)に連れて行ってくれて、ワインについて勉強をさせてくれたのである。夢が実り、いよいよスイスに帰る日、ジュネーさんが渡してくれた紙袋の中に、私が働いていた日の分の給料がそっくり入っていたのを見た時は、戸惑いながら「無給の約束では‥‥」というと「IMAIの仕事は、お金になる」と言ってくれた。この時の言葉はいつになっても忘れられないうれしい思い出となって残っているのである。 怒ったり、泣いたり、笑ったりした修行という名の渡欧生活は、膨らむ夢をその都度、実ったりつぶれさせたりして続いたのである。
19才で恋人ができる。やがて結婚相手としての夢は「大きな農家の娘さん」が第一条件であった。偶然にもその条件が満たされた。「大きな農家の娘」であることを知った時は、神の存在を知ったのである。なぜ農家にこだわったのかというと、戦後食べ物がなく、食べられなかった時代を生きた者だけが感じる「食べ物へ」の、特に白いごはんを食べたいという「気持ち」がこの夢を膨らませたのである。この女性が今の妻である。
その後ヨーロッパに渡り、修行して帰国する約5年間、結婚を待たせたのであるから罪深きものであったのかもしれない。だが結婚式は藤沢の教会で5年後に行い、神に誓い感謝したのである。彼女に助けられ、渡欧費用が貯まるとコックの団体である全日本司厨士協会の青年司厨士派遣のメンバーとして選んでいただき、早い時期に渡欧できたのは幸運であった。
外国で勉強をしたいという夢は、いくつかのハードルを越えねばならぬ 困難もあったが、周りの人たちに助けられ実現したのである。約5年間、語学の勉強をしていたつもりであったが、フランス語を話せるまでになるということは大変なことであり、日本にいての語学の進歩はほとんど無いに等しいことであった。
ドイツ語を主として話すスイスのベルン市が最初の目的地であった。この地区は、スイス・ドイツ語を話すから正統のドイツ語ではない。ノドに絡まってツバと一緒に口から飛び出す発音は、日本人の私たちにはほとんど通 じなかったのである。スイス人の知識人は3ヶ国語を話すといわれるように、私たちにはフランス語そして英語で話かけてくれるが、所詮私たちには通 じないので、両手を大きく広げ「お手上げ」とあきらめてしまう相手に「もう一度、もう一度お願いします‥‥」と食い下がっていった。仕事の合間に語学の学校に通 う。個人レッスンだと費用が高いので日本人の仲間4人で習いに行く。仕事で疲れ、そして精神的にクタクタになっても、このレッスンは一年間は続けることが出来た。それは「話をしたい、自分の思っていることを言葉に出して相手に伝えたい」という「願い」が奮い立たせたのである。
2年目になると、職場がジュネーブ・レマン湖畔・コペの町のホテルに移る。周りに世界の富豪や国王の別荘があり、いくらか暗いイメージのあるベルンから明るい所に来たという感じがした。言葉も通 じるようになってきたのも、気持ちをリラックスさせた事が良かったのかも知れない。精神的に楽になると、仕事へのさらなる向上の夢は広がり、料理から菓子、パン、そしてワインの勉強へと進んでいくのであった。 職場での契約をしながら他の店へ行って勉強してくるのを認めてくれた、コペのホテルのご主人「ゴットローさん」には頭が下がる思いで今でも深く感謝している。短期間であったが、菓子店、そしてパン屋のご主人たちにもずいぶんと可愛がってもらい、仕事を教えていただいた。
特に当時、フランスでは働くことは出来なかったため、フランス・ジュラ地方のアルボワにあるホテル「ドゥ・パリ」のご主人「ジュネー」さんには、約一年近くに渡ってお世話になったのである。1964年度のワインのMOF(チャンピオン)である「ジュネーさん」は、暇を見ては車に乗せてワイン畑やワイン生産者のカーブ(倉庫)に連れて行ってくれて、ワインについて勉強をさせてくれたのである。夢が実り、いよいよスイスに帰る日、ジュネーさんが渡してくれた紙袋の中に、私が働いていた日の分の給料がそっくり入っていたのを見た時は、戸惑いながら「無給の約束では‥‥」というと「IMAIの仕事は、お金になる」と言ってくれた。この時の言葉はいつになっても忘れられないうれしい思い出となって残っているのである。 怒ったり、泣いたり、笑ったりした修行という名の渡欧生活は、膨らむ夢をその都度、実ったりつぶれさせたりして続いたのである。